茶道を始めるビジネスパーソンが増えているという昨今。コロナ禍をきっかけに自分と向き合う時間が増えたことや、日本文化の集大成とも言える「茶の湯」を通じておもてなしの精神や所作を学ぼうと、さまざまな世代の人たちから注目されています。
そんな茶道の魅力を、稽古場での日々を綴ったエッセイ『日日是好日』の著者である森下典子さんにお話を聞きました。(全2回中1回目)
近年ビジネスパーソンも始める茶道
——昔と今では、茶道を習い始めるきっかけが変わりつつありますね。
私がお茶を習い始めた頃は、母親が娘に「お嫁入り前に、茶道を習っておきなさい」と言う時代でした。私は、いわゆる花嫁修業としてお茶を習った最後の世代だと思います。
当時20歳だった私は、正直、嫌々ながら稽古に通い始めたんです。ふだん長時間の正座をすることがなかったので、稽古に行くたびに足が痺れきって立てなくなりました(笑)。今この時代に、改めてお茶を始めたいと思う人が増えているとうかがって感慨深いです。
お茶は日本文化そのものですから、作法を身につけていれば外国へ行っても自信を持って日本文化について話せるし、お点前(おてまえ)もできる。……それは、確かにそうです。
でも、お茶が人生にもたらすものは、もっともっと広く深いと私は思っています。お茶に触れたことがない方は、お茶を習うということを1つのスキル(技能)の習得だと思っていらっしゃるかもしれません。
実は、私も最初は「お茶=お茶の点て方を習うこと」だとばかり思っていました。けれど、実際に長年お茶の稽古に通って徐々に見えてきた景色は、技術を身に付けて何かの役に立てるといったことではありませんでした。
ビジネスという場は能力を試されることの連続で、人と比べられ、競い合うことも多いでしょう。だから、最近は皆さんすぐに「スキル、スキル」とおっしゃる。……でも、お茶で習っているのはそもそもスキルではないし、人と比べる意味はない。全く次元の違う場だと思います。
お茶は季節のなかで「生きていること」を思い出す場所
——どんな風に違うのでしょうか?
仕事では、周りの評価や売り上げの実績、あるいは社内人事によって、未来に光が差したり暗く沈んだりするでしょう。仕事の好調不調が自分の人生の全てになって、片時も頭から離れず、休みたくとも休めない。そんなことはありませんか?
でもお茶の稽古場で、作法でがんじがらめ、決まり事だらけのお点前をすると、なぜか頭にこびりついて離れなかった何かが剝がれ消えていくのです。そして、「あ、この甘い風の匂いは梅の香りだ」「この柔らかな音は秋の初めの雨音だ」と、五感が蘇ります。お茶碗を眺めながら、「今年もこのお茶碗の季節が廻って来たのか」と季節のめぐりを思います。ある季節になると必ず思い出す感覚や言葉、その時にだけ見える景色があるのです。
仕事だけで暮らしていると、どうしても近視眼的になって自分の人生さえも業績や数字で評価して季節にも気づきませんが、私はお茶の稽古に通うことで人間回復をしてきたのです。
日本という国は、地球の中でも特に地理的に季節の変化がはっきりした国で、この豊かに変化する季節こそが日本文化を作ったと言ってもいいでしょう。季節とつながって生きることが、私たち日本人の心の源泉なのだと思います。お茶の稽古は、そのことを思い出させてくれます。スキルでも知識でもない。お茶は、季節に会いに行くことだと思うのです。
自分の気持ちと向き合い、日常に戻るための時間
——仕事だけになってしまうと、視野も狭くなってしまいますよね。
もしお茶を習っていなかったら、私は今日まで仕事を続けることはできなかったと思います。お茶の稽古をしている時は日常とは違う時間の流れの中にいて、時折もう1人の自分と話し合っているような気がすることもありましたし、遠い昔のたくさんの自分と共に生きてると思える瞬間もありました。
毎週、先生の家の門をくぐると、庭の木々の奥からつくばいの水音が聞こえてくるのです。その水音が聞えてきた瞬間から、私は日常とは違う世界に滑り込んでいきました。
床の間の掛け軸を拝見したり、お席に座って他の人のお点前を見たり、順番が回ってきて自分のお点前をしたり。開いた障子の向こうに青空が見えたり……。お釜から、柄杓(ひしゃく)でお水やお湯を汲んで、お茶碗に注ぐチョロチョロチョロという音に耳を澄ましたり。シャシャシャシャと、茶筅(ちゃせん)でお茶を点てる音を聞いたり。
私の前には「仕事」と「お茶」という2本の道があって、週に1回、「お茶の道」に行って違う時間軸を生きているのです。その時だけは、仕事の締め切りも、他人からの評価も、人生にしがらむ様々な悩みをちょっと脇に置いて、違う時間の流れる場所で、五感すべてで季節を味わうことができました。そして、稽古が終わると「今日も来れてよかったな」と深く呼吸しながら、高くて遠い空を見上げ、すがすがしい気持ちで帰る。そういう時間を過ごすことで、心が救われていた気がします。
日本を知るきっかけになる日本文化の総合芸術
——今はとくに忙しない日々のなかで過ごす人が多い気がします。
そういう人にこそ、お茶はいい時間になるのではないでしょうか。だって、お茶のお稽古中は少なくともスマホは触らない。スマホを見ずに3時間くらい座っていなければいけないですからね。それに今の世の中は、何でも手っ取り早く結果を求めるけれど、お茶は長い時間をかけて、自分で自分だけの答えを見つける世界です。どこまでお免状をいただいたとかではなく、自分のお茶を見つけるのです。
お茶会が大好きでお茶をしている方もいるし、陶器に興味があっていろいろな窯元に脚を運ぶ人もいらっしゃるし、書や掛け軸に興味を持つ方もいらっしゃる。 茶花が好きで自宅の庭を茶花畑にする人もいるし、茶の湯の歴史に興味を持つ方もいらっしゃる。茶室建築に興味を持つ方もいらっしゃる。
お茶の中にはたくさんの要素があるから、「茶道は日本文化の総合芸術」と言われるのはまさにその通りです。どれでもどの部分でもいい。ご自分が好きな世界を見つけられたら、人生が深く豊かに楽しめると思います。【後編へ】
インタビュイープロフィール
エッセイスト 森下典子さん
1956年神奈川県生まれ。日本女子大学文学部日本文学科卒業。「週刊朝日」の人気コラム「デキゴトロジー」の取材記者を経て、エッセイストとして活躍。2018年、ロングセラー『日日是好日』が映画化される。同年、続編となる『好日日記』、2020年、『好日絵巻』を出版。他に『猫といっしょにいるだけで』『前世への冒険』『いとしいたべもの』『こいしいたべもの』『茶の湯の冒険』などの著書がある。
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