人気の西郷どんですが、レアニッポンではちょっと視点を変えて、彼の奇妙なクセ(人間性)や、エピソードをAtoZのキーワードでお届けします。
え、日本人だったらAtoZじゃなくて五十音順だろって?それは西郷どんを取材すればするほど、彼は自分の生き方を貫いた“Rockな人”だったからですよ?
Dangerous(デンジャラス/危険)だった?地元の評価
西郷隆盛像といえば、東京・上野恩賜公園の西郷隆盛像(1898年作)を想像しがち。浴衣姿で犬を引き連れ、どこかへフラリと散歩にでも行きそうな姿の銅像だ。
一方、西郷の郷里・鹿児島にある西郷像は折り目正しい軍服姿。島津氏の居城である鶴丸城跡に建てられた鹿児島市立美術館の目の前に建立されたのは1937年のこと。東京に遅れること、実に39年!西郷は地元のヒーローとして今なお鹿児島で根強い人気を誇るのに、なぜ東京のほうが早かったのか。
諸説あるが、西南戦争で朝廷に歯向かった反逆者として扱われていた西郷の像を作るのは、やはり地元でも大変な葛藤と忖度(そんたく)があった。英雄は祀りたい、でも自分たちが政府から睨まれてはたまらない……というのが当時の薩摩人の本音だったとか。太平洋戦争直前、戦意高揚をタテマエにようやく作られた軍服姿の“西郷どん”の像。とはいえ、ようやくの英雄の帰還に、地元は大きく沸きたったと伝えられている。
© FUMIO YOSHIDA / ForYourImagesEmperor(エンペラー/天皇) vs 不作法者
明治天皇と西郷隆盛の逸話を探っていくと、明治天皇が西郷にとことん信頼を寄せられていたことがわかってくる。西郷の主君であるはずの島津久光の意見よりも、西郷の意見に耳を傾けるというから当然、久光はおもしろくない。
久光だけでなく、大久保利通ほか明治の元勲、立役者といわれた面々よりも、やはり西郷一直線でおられた明治天皇。少しでも西郷の姿が見えなくなると「西郷はどこだ!」と宮廷を駆け回っていたというから、明治天皇にとっての“西郷どん”熱は、並々ではなかった。その理由は単純明快。西郷は、誰に対しても顔色を窺うことなく、まっすぐに意見を言ったからだ。
そして、そのまじめで誠実な自分について「自分は不作法者だから、申し訳ない」と常に控えめな態度でいた。明治天皇はこの正直さに全幅の信頼を寄せ、惜しみない友愛を示された。
西郷はどこだ?Funny (ファニー/面白い)人心掌握術
西南戦争で西郷軍が戦った政府軍は、朝廷を後ろ盾にしたまぎれもない官軍だった。一方、明治政府への不満が若き薩摩藩士を中心に広がり蜂起した西郷軍は、明らかに反逆者。
「意地でも明治政府には加担しない!」という武士の心意気だけを抱えて、どうして西郷の部下たちは死を覚悟してまで味方したのか。西郷にまつわる数々の逸話の中には、そんな西郷の人心掌握の才を示すエピソードも多い。あるとき、西郷は部隊を率いて夜間のほふく前進をしていた。緊張からか動きがぎこちない部下たちに「こんなことして、まるで夜這いのようだ」と笑わせた。
大将自ら、おもしろおかしく冗談を言って笑いを取り、とぼけてみせる気遣いが、部下から心酔され「この人なら死をともにしてもいい」と言わしめた西郷の人柄に繋がっている。
そんな西郷どんの指揮官としての(男性ならシェア間違いなしの)苦労話をコチラにまとめました。ぜひご一読ください!!
ここから始まるは、男の悲哀の物語。
取材・文/新田哲嗣、タイトルイラスト/田中 斉、文中イラスト/清水萌子
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