2009年、米ジャーナリストのユナ・リー氏とローラ・リン氏は北朝鮮兵士に捕らえられ、140日間の捕虜生活を余儀なくされた。彼女らが強制収容所を逃れて帰国できたのは、クリントン元大統領の働きによるものだったという。
そんな元捕虜である記者の1人、ユナ・リー氏がTEDでスピーチを行った。「ユナ・リー:北朝鮮の捕虜として学んだこと(Euna Lee: What I Learned as a prisoner in North Korea)」で、彼女が捕虜として触れた北朝鮮人の温かみを語る。
「私が北朝鮮の捕虜として学んだこと」
最近、ハーバード・ビジネス・レビュー誌で若い世代の社会人たちが欲しているものについて読みました。私が最も共感したのは、「影響について語るだけでなく、影響を及ぼすのだ」という言葉です。
私はあなた方よりも少し、いや、だいぶ年上ですが、これはまさに私が大学在学中に持っていた目標でした。不当な、理不尽な扱いを受けている人々に、自分自身が影響を及ぼしたかったのです。
私がドキュメンタリージャーナリストになった理由、北朝鮮で140日間捕虜になった理由も、そこにあります。
2009年3月17日――みなさんにとっては聖パトリックの祝日ですが――それは私にとって人生が180度変わった日でした。
初めて目の当たりにした「敵」
私とチームメンバーらは、脱北者たちが中国で強いられている貧困生活についてのドキュメンタリー制作をしておりました。その日は撮影最終日で、私たちは国境にいました。
それを国境だと示すような鉄条網、柵やサインは見当たりませんでしたが、これは確かに多くの脱北者が逃げ道として使う場所。季節はまだ冬、川は凍っていました。
我々は川の中央で、脱北者が自由を求めるときに味わなければならない寒い気候、環境について撮影していたのです。突然、チームメンバーの1人が「兵士だ!」と叫びました。
振り返ると、緑色のユニフォームを着た若い軍人2名が、ライフルを持ち我々を追ってきていたので、全員、全力疾走で逃げました。
その間、「私の頭が撃ち抜かれませんように」と祈りました。中国の領土に入りさえすれば、安全だと信じていたのです。そして実際、中国に足を踏み入れました。
その直後、同僚であるローラ・リングが膝をついているのを目撃。その瞬間、どうすればいいかわかりませんでした。しかし、彼女が「ユナ、足の感覚がないの」と言ったとき、ここに取り残すわけにはいかないことだけはわかったのです。
瞬く間に、私たちは先ほどの2名の北朝鮮軍人に囲まれてしまいました。彼らの身長は私たちと大差ないにもかかわらず、頑なに私たちを基地に連れていこうとしました。
中国からだれか来てくれやしないかと、私は大声で助けを懇願しました。こんなところで、訓練された軍人に歯向かう私。彼の目を見てみると、彼はただの男の子でした。
そのとき、彼はライフルで私をぶとうとしました。しかし、彼の躊躇いは明らか。目は震えていて、未だにライフルはあげられたまま。私は折れて、「わかったわかった。ついていきます」と彼らに叫びました。
基地に着くと、私の頭は最悪のシナリオを描いて混乱状態になりました。同僚の発言も不安をあおりました。「私たちは敵なのよ」と。その通り、私たちは敵でした。そして私が感じるべきは恐怖だったのです。
しかし、そこでの奇異な体験から、私は恐怖を抱きませんでした。氷河の上で兵士と戦った際、上着をなくした私に、将校が自身のコートを差し出してくれました。
奇異な体験
私が言う「奇異な体験」の意味を説明します。
私は韓国で生まれ育ちました。我々にとって北朝鮮は、私が生まれる前から敵でした。朝鮮戦争以降63年間、北と南は休戦状態にあります。
80年代、90年代に育った私たちは、北のプロパガンダを教わっていました。「共産主義者が嫌いだ」と少年が言っただけで、北朝鮮のスパイが彼を惨殺したなどと、生々しい話を沢山聞いていました。
他にも、若い韓国人少年が、第一総書記を象徴する太った巨大な赤い豚を打ち破るカートゥーン(動画サムネイル参照)を見ました。これらの話を何度も繰り返しに聞いてきた結果、韓国の若者の頭に「敵」という一文字が刻みこまれた。
いつしか、私は彼らを同じ「人間」と思わなくなったのでしょう。「北朝鮮に住む人」と「北朝鮮政府」を同一視していたのです。
捕虜生活で触れた北朝鮮人の人間性
捕虜生活に話を戻しましょう。それは2日目のこと。私は国境を越えてからというものの、一睡もとれていません。そうしたら、若い兵士が私の監房まで来て、小さなゆで卵を私にくれました。彼は「これがあなたに力になるでしょう」と言いました。
そんなささやかな優しさを、敵から授かる人間の気持ちがわかりますか? 彼らに優しくされるごとに、私はその後の最悪のケースを想像しました。
1名の将校が私の不安を見抜き、先ほどのカートゥーンを引き合いに出して聞きました。「私たち全員が赤い豚みたいだと思いましたか?」と。
毎日が心理戦のようなものでした。尋問人が週に6回、旅程や仕事について何べんも私に書かせました。そしてそれは彼らが納得する内容を書くまで続いたのです。
3ヵ月の拘留を経て、北朝鮮の裁判は12年間強制収容所に収容する判決を下しました。当時私は部屋で座って、移動させられるのを待っていました。本当に何もすることがなかったので、2名の女性看守が何を話しているか、耳を傾けてみました。
看守Aと看守B
看守Aは看守Bより年上で、英語を勉強していました。よくカラフルなドレスを着てきて見せびらかしていたので、彼女は裕福な家庭の出身のように思えました。
看守Bは看守Aよりも若く、歌がとても上手。セリーヌ・ディオンの『マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン(1997)』を歌うのが大好きで、たまに歌いすぎだったくらいです。彼女は無自覚に私を拷問するのが上手だったみたいですね(笑)。
(会場笑)
看守Bは、年頃の女の子がみんなすること――つまり化粧に、毎朝多くの時間を割いていたのです。また、彼女らは自国よりも出来のいい中国ドラマが大好きでした。
「これを見たらもう北朝鮮のテレビ番組は見られないわ」と看守Bが言っていたのを覚えています。彼女は自国のテレビ番組をけなしたとして叱られていました。看守Bは看守Aよりも豊かな心を持ち、何か発言して看守Aから怒られている姿をしばしば見ました。
ある日、彼女らは私の部屋へ女性同僚多数を招待しました――女性同僚らがどこから来たかはわかりませんが。私は看守室に呼ばれ、合衆国でワンナイトラブが本当に起きるのか質問されました。
(会場笑)
公の場で若いカップルが手をつなぐことも許されない国で、ですよ。その情報をどこから仕入れたかはわかりませんが、彼女らは恥ずかしそうにクスクスと笑っていました。その場にいた全員が、私が捕虜であることを忘れていて、まるで高校の教室に戻ったような心地でした。
そして、女の子たちが私に似たカートゥーンを見て育ったことを知りました。ただ、プロパガンダの方向が韓国と合衆国に向いていただけで。
次第に北朝鮮の人々の怒りの根源がわかってきました。彼女らが我々を「敵」だと教わって育ったのであれば、私が「敵」を恐れ嫌ったように、彼らが私を嫌うのは当然のことです。
しかし、私たちを隔てるイデオロギーを超えたあの瞬間、私たちは同じことに興味を向けている女子でした。
「敵」ではなく「人間」
帰国後カレントTV社の上司にこの話をしたところ、彼はまず「ユナ、ストックホルム症候群って知っているかい?」と言いました。
私は恐怖、脅威を目の当たりにする気持ちや、尋問人と政治を議論したときの緊張感を忘れてはいません。私たちの間に、越えられない隔たりは確かにありました。
しかし、家族、日常、子どもたちの将来の重要性を語り合ったとき、私たちはようやくお互いを「敵」ではなく「人間」と認識できたのです。
帰国の1か月前、私は重病に侵されました。看守室から解任されたと、私に別れを告げに来たのは看守B。彼女は誰も見ていないこと、聞いていないことを確認し、「よくなって家族に会えるといいわね」と私にささやき声で言いました。
私が北朝鮮について記憶しているのはこのような人々のこと――自身のコートを差し出してくれた将校、ゆで卵をくれた看守、合衆国でのデートについて興味津々な女性看守ら――です。彼らも我々同様人間でした。
北朝鮮人と私は自国の大使ではありませんでしたが、我々は人類を象徴していました。
今は帰国して、自分の生活に戻り、上記の人々についての記憶は薄れてきました。そして現在、私は北朝鮮が合衆国を挑発していると読み聞きする立場にあります。
彼らを再び「敵」と認識するのがいかに簡単か知りました。しかし、あそこにいたとき、「敵」の目に憎悪よりも人間らしさを視認できたことを私は忘れてはなりません。
ご清聴ありがとうございました。
(会場拍手)
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