名映画監督ジョージ・ルーカス氏は、大ヒット作『スターウォーズ』シリーズの監督・脚本家である。
「名映画監督」、と聞くと誰もが幼少期から映画マニアである人物像を想像するだろう。しかし、驚くべきことに、彼は偶然南カリフォルニア大学(以下USC)に入学することになるまで、映画・撮影についてまったく知らなかった。
前編では、そんなジョージ・ルーカス氏の「人生の転機」「生徒だった頃の自身」についてのスピーチを書き起こす。
これは、2014年――自身の会社、ルーカスフィルム社をウォルト・ディズニー社に売却した2年後――にアカデミー・オブ・アチーブメントにて行われたスピーチである。
「大事故にあって病院にいる時、人生を変えることにしたんだ」
※映像はCorporate Valley社による提供
サンフランシスコは僕の故郷だ。ここから50、60マイル東のサンフランシスコ・ベイエリアに僕はずっと住んでいたよ。
東部は農業地帯で、とても小さく、田舎。
子どもの頃は、芸術やものづくりへの興味が強かった。誕生日にスキルソーのセット(Skil社による電動工具のセット)をもらって、ドールハウスやランプ、砦やツリーハウス――作れるものはなんでも――作ったものだ。
年を重ね12歳くらいの頃、車と出会う。車を作ることやレースに没頭し、その時は車しか見えてなかった。残念なことに、それによって学業がおろそかになってしまう。
(会場笑)
スピーチの授業では、車の絵を書いていたし、できる限り学校へ行くことを拒否していた。それでもなんとか、高校を卒業することになる。
人生の転機
というのも、卒業から1週間前――その日までに4枚のレポートがあったものの、未執筆だった――図書館から家に帰る途中、大変な自動車事故にあったんだ。
僕が乗っていたのはレースカーだった。当時僕は外車向けのカーサービスで働いていて、外車でレースをしたりしていたんだ。
そのレースカーにはロールバーがあり、航空機用シートベルトも搭載。SCACによって認可されたものはなんでもつけていた。
僕が左折しようとしたその時、他の生徒の車が90マイル毎時で向かってきて、僕の車の側面に衝突。僕が乗っていた車はあまり大きなものではなかった。
そして、僕の車は7回横転し、木に突っ込んだ――これは人間が耐えられるはずのない大事故。悪運が重なり、とても大きく、太いシートベルトが壊れていたんだ。加えると、肺がつぶれていた。
救急車が僕を運びに来た時、救急隊の人が「彼はもう助からない」と言ったそうだ。息も、心臓も止まってたもんだから。
医者のところへ連れていかれた時、彼は「いや、どうにかなるぞ」と言って、僕を引き戻してくれた。そして病院にいるとき、人生を変えることにしたんだ。
「映画や撮影について、何も知らなかった」
病院で、「たぶん僕はレーサーになるべきではないんだ」と思った。その事故は何かを象徴していたのかもしれない。
レースドライバーになった友人全員は、事故にあってもやめなかった。でもなぜか、僕はやめることにしたんだ。これは恐らく、病院でレーサーとしての将来をたくさん考えたからだろう。
それで、短期大学に行くことにした。レポートは終わらせていなかったものの、卒業することはできたんだ。事故にあった時が、卒業式の時だったからね。
新聞の一面には、「僕が死んだ」とあったし、学校の人々も、「彼は死ぬんだな」と思ったんだろう。恐らく彼らは「うーん。彼の父親はいい人だったし、死ぬんだったら彼に卒業証書を渡さないわけにもいかないでしょ」となったんだな。
(会場笑)
それで証書を手に入れられたんだ。僕はモデスト短期大学に入学した。その時代、大学教育というのは私立でない限り無料――カリフォルニアのすばらしいところだね。
ちゃんと授業を取るようになった。あれをこれをとね。「もしかしたら、好きなことを見つけられるかもしれない」という気持ちで。
そして、社会学――特に人類学――に魅了され、専攻したんだ。でも、子どもの頃から本当にしたかったのは、イラストレーターになること。
父親に「短大ではなく、ロサンゼルスにあるアートセンターデザイン大学に行ってイラストレーターになりたい」と伝えたところ、「私たちの家族で芸術家になれる人などいない。イラストレーターで、生活できるはずがないだろ。もしそうしたいならかまわないけど、お金は払わないよ」と言われる。
(会場笑)
彼は僕が怠け者で、自分でお金を払ってまでして行かないことを知っていたのだ。短大では興味のあることを学んでたもんだから、とてもいい成績を修めた。
そしてサンフランシスコ州立大学へ、人類学を専攻するために進もうとしていたんだ。短大での最後の年、3歳からの親友が南カリフォルニア大学(USC)のビジネススクールに行こうとしていた。
当時は大学自体に入試試験があったんだ。彼はストックトンでその試験を受けたがっていて、彼は自分で運転したくなかったようだ。彼は「僕と一緒に入学試験を受けに行こうよ」と言う。
「僕がUSCに合格できるわけないだろ。州立に入れるのは、いい成績を修めて、推薦してくれたからだ。無理に決まっている」と僕は言う。
すると彼は「テストだけでも受けてみたらどうだい? 気にすることは何もない。どうせ落ちるんだから」と言った。
(会場笑)
気の進まないまま受けてみて、驚いたことに、合格したんだ。「何を専攻すればいいんだ。USCの文化人類学科はあまり気が進まないし」と彼に聞くと、「映画学を専攻できるみたいだよ」と言われる。
僕が「それはいいかもね」と言うと彼は、「最高だよ。興味があるんだろ? 楽しいと思うな。君の父親もUSCに行くと言ったら何を専攻するかまでは聞いてこないよ」と答えた。
(会場笑)
映画への興味
だから、USCに入学し、シネマトグラフィーを専攻。それはシネマトグラフィーと言うよりかは、映画芸術学部だった。僕からしたら「映画を作るために、学校に行くのか? ありえん」という感じ。
僕の幼少時代は、テレビの普及よりも少し前。映画を見に行くといったら、ナンパ目的以外になかった。映画や撮影について、何も知らなかったんだ。
なんとなく映画芸術学部に入って、後々200人の生徒しかいないことに気付く。誰も映画芸術学部に入りたくないもんだから、学校は生徒を授業に入れるのに必死。
(誰も入りたくないのは)映画芸術を専攻したところで、映画業界で仕事を得られるはずがないから。
当時は映画業界に入る道は完全に閉ざされていた。映画業界は10年代、20年代あたりにできたもので、これは60年代の話。コネ入社以外では、映画業界はありえなかった。
だから映画学部の生徒たちは、はみ出し者で、隣の寮から出てきた女生徒らは僕たちを避けた。ロン毛でひげのやつら――これは60年代の話だからね――それが僕たち。
(会場笑)
ひげと髪をそって、ディズニーランドのエントランスで切符を剃る以外に、仕事へのつてはなかった。
しかし、今では稀有になった、その学部の特性は、そこにいたすべての人は映画が大好きだったこと。
入学当初、僕は映画が特別に好きではなかったけど――初めて取った授業の中にアニメーションがあって――すぐにハマった。
「映画はすばらしい」と当時の僕は思う。
映画芸術学部で、ここサンフランシスコやモデストでは見られない映画を見れたんだ。たまにここへ大作を見に来たが、多くの場合はアヴァンギャルドな映画を見に行っていた。
さまざまな芸術家たちが映画を作っていて、僕はそれに魅了された。しかし、「自分が得た全財産を映画につぎ込むようでは生活はできない」というのが当時の僕の考え。
頭角のあらわれ
学部の授業で、アニメーションカメラの使用方法を学ぶために1分の映像を作る課題があった。それには指示があって、アニメーションカメラを上下、左右に動かせという。
僕は指示にのっとり1分間の映画を作ったんだ。サウンドトラックを加えて――他の生徒は誰もそれをしなかった――大学で評判になり、映画祭に送られたりもした。
それは、アニメーションを今までとはまったく違う側面で見たもの。僕はその作品が好きだったし、みんなからは「君はこの学部で1番すごいやつだよ」と言われ、「僕が!?」と答えたものだ。
それから四六時中、映画製作に没頭して、コーヒーとハーシーチョコレートだけの生活を送った。
映画製作が僕の人生そのものになったのだ。
当時の目標は、サンフランシスコでみたようなアヴァンギャルド映画を作ること、ドキュメンタリー映画の編集者兼カメラマンとして働くこと。それが好きだったからね。
僕はハリウッドでの映画製作やハリウッドのスタジオにはてんで興味がなく、卒業後すぐにサンフランシスコに戻り、そこで盛んだったドキュメンタリーや実験的な映画を作ろうと思っていた。
でも、何が起こったかと言うと、ハリウッドスタジオで働けるスカラーシップを得たんだ。僕は与えられた機会には、常に前向きだった。
与えられた2つの機会
学校では、当然みんなが映画好きで、僕も映画好き。
僕の姿勢というのは、「僕は映像なら何でも作れます。コマーシャルをやってほしいならやりますし、掃除機に関する産業映画を作ってほしいならそうします。
なんでもできます。映画が大好きですから。だからどうかチャンスをください」というもの。
6ヵ月間スタジオで映画製作の見学をしなさいと言われた時も、僕はそのようにして、前向きな姿勢で赴いた。僕は映画業界そのものを拒否したかったが、少なくとも見学には行ったのだ。
カール・フォアマンの下での体験
僕には2つの機会を与えられていた。1つ目は社会主義のハリウッド脚本家、カール・フォアマンの下での。これは帰国後彼に与えられた最初のチャンスだった。
彼は自分の映画の舞台裏映像のために、生徒たちの作品を起用したかったんだ。彼は舞台裏のプロデューサーや監督の映像を求めていたものの、僕は砂漠での抽象映画を作る。
(会場笑)
そのことについて、議論をしたものだ。1ヵ月は僕が本当にその舞台裏映像を作りたいかどうかを話し合っているだけで過ぎた。僕は「あなたが何でも作っていいとおしゃったのですよ。今になって作ってはならないと言うのですか?」と反論。
結局、僕の映像が他とは群を抜いて成功したものとなる。他は放映時間を得られなかったし、僕のは全ネットワークで放映されていたからね。
フランシス・コッポラとの出会い
もう1つのチャンスで、僕はワーナー・ブラザース社に行った。普通だったら、どこかしらの部門に入れられるもんなんだけど、彼らからは気まずそうに「えーと」って言われた。
僕がスタジオに入る時、ちょうどジャック・ワーナー(当時ワーナー社の代表)とすれ違う。彼はちょうど辞職し、セヴン・アーツというとても小さなカナダの会社にワーナー社を売却。
セヴン・アーツ社には少人数の映画製作グループがあり、本を脚本にするためにUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の映画学部生を雇用した。それが、映画学部出身で映画業界に入れた当時唯一の生徒。
セブン・アーツ社を通じて培ったコネで、彼は小規模な映画を初めて作ることになる。そして、彼はワーナー社でさらに大きな映画をするチャンスを与えられた。
その製作見学が僕に唯一与えられた選択肢。他の部門は全部閉じられていた。
かつてのUCLA映画学部の生徒の名は、フランシス・コッポラ。僕は「今空いている部はないから、コッポラの映画製作を見学しなさい」と言われる。
それに対し、僕は「いやー。それはもうカール・フォアマンさんでやったので、また見学ってのは厳しいです。僕はそもそもハリウッド映画に興味ないですし……まぁやりますよ」と。
その時はアニメーション部門が営業停止していたものの、そこには短編映画や映画の断片やカメラが置いてあったのだ。そこは無人。
僕はアニメーション部門に行って、短いアニメ映画を作ることにした。「どうせ誰もいないんだし」と。
(後編に続く)
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