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なぜ日本のこどもたちは成績が良いことにうしろめたさを感じるのか:『勉強できる子卑屈化社会』

藤井浩

2017/01/16(最終更新日:2017/01/16)


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 小中学生のころ、あなたは成績が良いほうだっただろうか。こう聞かれて、「ええ、すごく良かったですよ。クラスで5本の指には入ってましたね」と胸を張って答える人はあまりいないだろう。

 スポーツが得意だった、あるいは悪ガキだったとさえ公言する人は少なくないのに、「勉強ができた」と語ることにはなぜかある種の罪悪感、うしろめたさがつきまとう。

 「勉強ができること」を素直に誇れない、むしろそれを口にするのがはばかられるという日本社会の奇妙な空気。その謎を「勉強できる子」だった立場から考察したのが今回ご紹介する『勉強できる子 卑屈化社会』である。

阻害され、口を閉ざす「勉強できる子」たちの本音

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 著者である前川ヤスタカ氏は、現在上海で活躍するビジネスマンである一方、インターネット個人サイト黎明期からそのユニークな視点で数々の名企画を起ち上げている人物。そんな著者がTwitter上でつぶやいた「勉強できる子あるある」に、共感のツイートが多数寄せられた。本書は、その意外なほどの反響をベースに執筆されたものだ。

 こども時代、スポーツや芸術が「できる子」は賞賛され、本人も誇らしげにそれを受け止める。だがこれが「勉強」となると、なぜかそうはいかなくなる。テストの成績や通知表の評価が高かったことを少しでも公にすると「自慢してるのか」と言われ、それがいやで成績がよいことを隠すと「イヤミか」と言われる。いや、実際に面と向かって言われなくとも、「そう思われる」という得体の知れない圧力が日本の社会には醸成されているのだ。

 さらに、「アンチ勉強」としか呼びようのない謎の思想が「勉強できる子」たちを苛む。いわく、

「勉強なんてできても社会では役に立たないぞ」
「勉強ばかりして遊ばないなんてこどもらしくない」
「学校の勉強では学べないこともたくさんある」

 などなど。そんな理不尽な視線に晒され、「勉強できる子」はどんどん人目を避け、卑屈になってゆく。

 本書の指摘で特に膝を打ったのは、「勉強できる子がレベルの高い高校・大学に進み、そこで自分の学力が決して上位ではないと知ったとき、かれらは「安心」する」という点だ。

 自分が勉強において突出していたことに窮屈さを強いられてきた子は、「実はそれほどでもない子」の集団に安らぎを感じ、そこに埋没して堕落してゆく。勉強ができることを誇れない社会は、こうして能力あるこどもたちの意気をくじいてきたのかもしれない。

「勉強できる子」が疎まれる社会的背景

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 著者は本書で、「勉強できる子」の不遇の背景にあるものについて様々な考察をしている。なかでも興味深いのは、日本の教育史からそれを紐解くくだりだ。

 明治になって整えられた学制は、厳しい高等教育の狭き門をくぐり抜けて官僚や医者、企業のエリートといった職に登り詰めるいわゆるインテリゲンチアを生み出す。だが第一次世界大戦後の大不況によって大卒就職率は30%台となり、インテリ層の「価値」は激減する。プライドは高いがツブシが利かない「勉強できても社会では役に立たない」風評の萌芽だ。このあたりは、現代の日本の就職事情にも似ているように思える。

 さらに第二次世界大戦での敗戦後、GHQの主導で整えられた教育改革により、最高学府たる大学の数は一気に増加。大宅壮一が「駅弁大学(駅前に駅弁が必ず売られているように、地方にどこでもある大学)」と揶揄するように、高等教育の価値は薄らいでゆく。

 そして高度成長期、社会人としての能力と教育制度による「学力」との乖離から、「学歴社会」に対する疑問・批判が徐々に高まってゆく。「ガリ勉」という言葉が生まれたのもこのころだ。「勉強」が「学校≒国が求める人材教育をそのまま受け入れること」と捉えられ、当時の反体制の空気から反駁を受けたことも一因としてはあるだろう。

 とは言え、「学歴」が就職にとって大きなファクターとなっている状態はしばらく続く。そこでさらにこどもたちを揺さぶったのは「詰め込み教育」から「ゆとり教育」への転換だった。とにかくたくさんの情報量を与える教育が「詰め込み」と批判され、その結果導入された「ゆとり教育」。だがそれが学力低下や公立・私立校の教育格差に至るとわかると、また「脱・ゆとり教育」へと転換する。こどもたちは振り回されっぱなしだ。

 そんな流れのなか、かつてシラケ世代と呼ばれた年齢層が大人になりふたたび「頑張ることはカッコ悪い」という気分が醸成されたり、「昔はヤンキーだったけど今はその体験を糧に頑張ってるッス」のようなことが美談として語られたりする風潮が後押しし、どんどん「勉強できる子」は肩身が狭くなってゆく。

「勉強できる子」が生きやすくなるには?

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 本書ではさらに、テレビなどのメディアにおける表層的な「勉強できる子」のステロタイプと、「勉強できる子」にチクリと物申すことがよしとされる風潮に対しても実例を示して苦言を呈している。そう、問題は「勉強できる子は勉強を文字通り強いられている」とか「勉強できる子は恵まれていて優越感を感じている」とかいったことではない。「勉強できる子をdisるほうがウケる」という社会の空気にあるのだ。

 本書はこの社会の空気をもう少し「勉強できる子」が生きやすくなるよう変える手段を模索する。だが個人が気持ちを切り替えるのは難しく、それは社会が「学歴偏重」「詰め込み教育」「頭でっかち」といった偏見を是正するのも同様だ。ただ、ひとつだけ言えるのは、「勉強できる子が卑屈にならなくてすむ社会は、勉強ができない子にとっても生きやすいはずだ」ということであろう。

 巻末には本書の表紙と挿絵を担当する能町みね子氏と筆者との対談も収録されており、これがまた面白い。神童と呼ばれ東大を卒業した能町氏のエピソードや、メディアにおける「勉強できる子」の扱いの変遷などが屈託なく語られている。「勉強できる子」だった人ならずとも、ぜひ手にとってほしい一冊だ。

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