「美人すぎるソプラノ歌手」として、現在世間を騒がしている田中彩子。そのすらっとした体から響き渡る力強く、高く伸び上がる歌声は、10代で、「100年に1人」とも称される“ハイ・コロラトゥーラ”の才能を認められたほどだ。史上最年少の22歳で、楽曲を独りで歌い切るソリストとしてデビューして以来、止まるところを知らない田中彩子。美しきクラシック界の歌姫の活躍の根源には、何があるのだろうか。
今回は2016年6月5日放送の「情熱大陸」に合わせて、ソプラノ歌手・田中彩子が世界に羽ばたくまでのプロセスを追う。
なぜ田中彩子は、ソプラノ歌手を志したのか。
1984年、京都のごく普通の家庭のもとに生まれた田中彩子は、幼い頃からピアノを習い始める。高校の進路希望調査には「将来はピアニストになりたい」と音大を希望していた。しかし、プロのピアニストでも届かない人がいると言われるオクターブの音の壁にぶつかる。
ピアニストとしての夢を諦めようとしていた田中彩子は、「私の手は子供みたいに小さく、1オクターブ先の鍵盤に指が届かない」と当時のピアノの先生に相談したところ、歌の先生を紹介される。そこで参加した歌の音楽研修が、田中彩子にとって歌手を志すきっかけとなった。
音楽研修の発生練習で力強く、高く伸びていく歌声を披露した田中彩子を、研修で指導を担当していた元宮廷歌手のミルカーナ・ニコロヴァ氏が「鳥のように美しい」と大絶賛。数多のオペラ歌手を育て上げたニコロヴァ氏による「ものすごい才能がある。私が教えるからウィーンに来なさい」という熱烈なラブコールを受け、田中彩子は、10代で単身オーストラリアへの留学を決意する。
田中彩子が史上最年少の22歳で立った「世界の舞台」
高校卒業後、10代という若さで渡った異国の地での生活は、苦難の連続だったという。田中彩子は学校から帰った後も、部屋にはピアノのみを置き、音楽にだけ集中する生活を送っていた。
しかし、田中彩子は「この道をベートーヴェンも歩いた」と自分に言い聞かせ、その類い稀なる才能を磨き上げていった。
大学卒業後、22歳の時、4年間の努力が実ることとなる。
スイス・ベルン州立歌劇場で日本人史上最年少、且つ同劇場史上最年少で、ソリストデビューを果たす。高名な指揮者であるユリアフ・インバルの息子であるダニエル・インバル指揮のもと、『フィガロの結婚』を披露。難易度の高い風刺的な戯曲を見事に歌いきったのだ。
スイス・ベルン州立歌劇場で日本人史上最年少、且つ同劇場史上最年少で、ソリストデビューを果たす。高名な指揮者であるユリアフ・インバルの息子であるダニエル・インバル指揮のもと、『フィガロの結婚』を披露。難易度の高い風刺的な戯曲を見事に歌いきったのだ。
さらに翌年、田中彩子が23歳の時、世界中の50以上の都市から代表者が集う「国際ベルヴェデーレ・オペラ・オペレッタ・コンクール」にオーストリア代表として本選出場を果す。
その後も、ロンドンの「ロイヤル・フィル定期公演」など、各国を代表するオーケストラから依頼が田中彩子の元に相次ぐ。ドイツ、イギリス、フランスでもコンサート歌手として多数の招待を受け、その全てにおいて地元紙や音楽雑誌で大絶賛され、田中彩子の名をヨーロッパ中に轟かした。
田中彩子の歌声は、海を越え世界中に響き渡る。
田中彩子の止まるところを知らない人気は、ヨーロッパを越え、2013年には南米アルゼンチンの首都ブエノス・アイレスでもコンサートツアーを行った。「高音は信じられないほど正確、それにもかかわらず響きは柔らかで、まさに天使のよう」と絶賛され、その年のベスト・イベントにも選ばれた。
日本でも2016年の夏には、愛知県、長崎県、三重県、東京都、福岡県、静岡県でのコンサートを控え、多忙な日々を送っている。
現在も、田中彩子はオーストリアのウィーンに在住しながら、世界を股にかけて活躍し続ける多忙な日々を送る。田中彩子のインスタグラムでは、ソプラノ歌手としての日々の活動から食事管理を徹底するなど、ストイックに自分を磨き上げる様子をうかがうことができる。日本のメディアに登場する機会も増え、これから更に広い領域で活躍していくことだろう。
「天使の歌声」「鳥のように美しい」と謳われるその強く響き渡る歌声とともに、世界を魅了し続ける田中彩子。ソプラノ歌手として、日本人として、世界にその大きな翼を羽ばたかせていってほしい。
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