今回紹介するのは、第二次世界大戦中、外交官として奔走した杉原千畝という人物の名言とその生きざまだ。
2015年12月5日公開の映画『杉原千畝 スギハラチウネ』は、戦後70周年企画として彼の生涯を題材に制作された。彼は第二次世界大戦で戦った軍人などではなく、歴史の教科書で大きく取り上げられているわけでもない。どのような人なのかよく知らないという人も意外と多いのではないだろうか。
しかし、戦後節目の年の映画として彼が選ばれたのには、何か特別な理由があるはずだ。ここでは彼の活躍を、残された名言と共に分かりやすく紹介していこう。
日本とイスラエルを繋いだ偉人、杉原千畝
2011年3月。まだ冬の寒さの残る東北の地で起こった大災害が、日本全体を震撼させた。東日本大震災だ。
絶望の淵に立たされた多くの日本人を救った温かい援助の中には、外国からの救助チームも少なくなかった。米国の救助作戦“Operation Tomodachi(トモダチ作戦)”はニュース等でご存知の人も多いだろう。
そんな外国人支援チームの中で、どこよりも早く医療支援チームを派遣してくれた国を知っている人はどれほどいるだろうか? その国は、イスラエルだ。震災が起こって一ヶ月足らずで、遠く9000km離れた必ずしも豊かとは言えないイスラエルから支援があったのにはある特別な理由があった。
このイスラエルと日本との絆に欠かせない人物が、ここで紹介する杉原千畝なのだ。
秀才、杉原千畝の外交官への道のり
1900年、岐阜県に生まれた杉原千畝は小学校時代から成績優秀な少年だった。そのため、父は千畝が医者になることを願い、医学専門学校の願書を送る。しかし、医者の道を進むのが嫌だった杉原千畝は、結局受験をすっぽかしてしまったのだ。
語学好きの杉原千畝が進むこととなったのは、早稲田大学の英語科であった。父はこれに大変腹を立て、学費や生活費を出すことを拒否する。仕方なく若き千畝は、アルバイトをして全ての費用を自分でやりくりする生活を送った。
そんな中、杉原千畝が大学の図書館で偶然見つけたのは、外務省の官費留学生の募集広告だった。官費で3年間留学して語学を身につけ、のちに外交官に採用されるというものだ。
受験までの期間はわずか一か月しかなかったが、「官費留学生になればアルバイトをしなくても英語の勉強ができる!」と、杉原千畝は素晴らしいチャンスに目を輝かせた。そして杉原千畝は無我夢中で勉強し、 みごと試験に合格するのだ。
杉原千畝の名言から学ぶ:責任を持つ人間にとって難しい“当然のこと”
こうして憧れの外交官になった杉原千畝は、日本にいる間に結婚した妻と二人の子供を連れて複数の国を転々とする。そして第二次世界大戦が勃発した1939年、彼らはリトアニアへと渡った。
当時ドイツの政権を握っていたナチスドイツは、ユダヤ人排斥運動を明言しながらオランダやフランスなど、ヨーロッパの国々を占領し始めていた。ナチスドイツを恐れたユダヤ人は欧州各地を逃げまどい、リトアニアなどへ逃げ込んでいたのだ。
そしてナチスの手はリトアニアにも伸びてこようとしていた。ユダヤ人に残された唯一の逃げ道は、日本に渡る、あるいは日本を経由して他の国に渡ることだった。そして日本渡航のためには、ビザが必要だったのだ。
そのため、彼のいるリトアニアの領事館にはビザを求めて連日ユダヤ人が押し寄せ、夜になっても家の前で行列を作っていたという。
しかし、当時日本はドイツと同盟を組んでいた。ドイツ軍の追うユダヤ人を逃がすためにビザを発行すれば、当然日本とドイツの関係は悪くなる。日本政府は何度も杉原千畝に対し、「ユダヤ人難民にはビザを発行しないように」と回訓を与えていた。
最初は政府の意向に仕方なく従っていた杉原千畝だが、ついにそれを無視し、自分の判断による行動に出る。ビザの発行を開始したのだ。
出典:en.wikipedia.org その時同僚に語り掛けた杉原千畝の名言がコチラだ。
周りの意見や環境に流されず、自分の良心を取るその杉原千畝の決断力を物語る名言だ。さらに後年、当時の事を振り返る杉原千畝による、以下のような正直な名言も残っている。
杉原千畝はリトアニアがソ連に併合され、リトアニアを去ることになる時までビザの発行をし続けた。記録では、彼の発行したビザは全部で6000~8000枚に及んだと言われている。
悩んだ末に杉原千畝は、自分の利益ではなくユダヤ人の将来や日本の国益を選び取ったのだ。その決断がこのような名言たちを生み出した。
この名言から垣間見える杉原千畝の意志の強さは、学生時代に父の反対を押し切って語学の道を選んだ頃から養われてきたものだったのだろう。
そして、当然のことをしただけだ、と言い切れる杉原千畝の名言の潔さには、日本男児の持つ正義感のようなものが感じられる。
彼のビザによって多くのユダヤ人がイスラエルに逃げ延びたということで、イスラエルは今も日本に対して感謝の思いを忘れていない。これが冒頭で述べた、東日本大震災の医療救援チームの話につながってくるのだ。結果的に70年経った今も、杉原千畝の判断は日本の“国益”となっている。
杉原千畝の遺した無言の名言
長い間良い評価を得ることのできなかった杉原千畝の遺した名言は、他の偉人の名言と比べても正直多いとは言えない。その名言の少なさの理由は、日本人独特の美徳ともいえる彼の“寡黙さ”にあった。
戦争が終わり、日本に帰国した彼を待ち受けていたのは冷たい仕打ちだった。日本政府の意向に反して独断でビザを発行し続けたことで杉原千畝は外交官を解雇され、一般の企業に転職した。彼に送られる賞賛や感謝の言葉はほとんどなく、むしろ痛烈な批判ばかりだったという。
ビザによって助けられたユダヤ人が杉原千畝を探し出すまでの数十年間、彼の栄誉は世間で公式に認められることがなかった。これが、彼の名言などが世にそれほど知られていない理由なのだ。
それにも関わらず、生前の杉原千畝は自分の過去を自慢したり声高に周りの人に触れて回ることをしなかった。杉原千畝の後世を見ると、その無言の姿勢こそが評価に値すると感じてならない。無言の名言と言えると思うのだ。
ビザによって助けられたユダヤ人が杉原千畝を探し出すまでの数十年間、彼の栄誉は世間で公式に認められることがなかった。これが、彼の名言などが世にそれほど知られていない理由なのだ。
それにも関わらず、生前の杉原千畝は自分の過去を自慢したり声高に周りの人に触れて回ることをしなかった。杉原千畝の後世を見ると、その無言の姿勢こそが評価に値すると感じてならない。無言の名言と言えると思うのだ。
彼の評価はこれからも上がり、忘れられていた名言たちが掘り起こされていくかもしれない。もっとも、名言の数が功績の大きさと必ずしも関係しないということは杉原千畝自身が教えてくれているのだが。
最後に大きな視野で世界を見る杉原千畝の暖かい名言を紹介してこの記事を締めくくろう。
2020年には東京オリンピック開催が予定され、日本は今まで以上に国際的な国になっていくだろう。そんな今だからこそ、杉原千畝の名言やその生涯から真の国際人としての気概を学んでいきたい。
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