出典:omotenashi.nl
2013年9月、日本にひとつのビッグニュースが流れ、日本中を歓喜の渦に巻き込んだーー56年ぶり、2回目の選出となった日本のオリンピック招致である。この日、めでたく2020年の夏季オリンピックの開催地が日本になったわけだ。
そして、日本中が待ち望んだこのオリンピック招致の決め手となった、ひとつの言葉がある。それが国際オリンピック総会の場で滝川クリステルが放った「おもてなし」という言葉だ。2020年東京オリンピック開催は、このおもてなしという言葉と共にあると言っても過言ではないだろう。
日本政府もまた、この「おもてなし文化」を観光立国の要として掲げている昨今だが、このおもてなしという政策、筆者にはどうにも腑に落ちないところがある。おもてなしという文化が、ではない、おもてなしという文化を観光政策の要に据えることが、である。
これから述べる内容が決して日本人批判ではないことを予め弁明しておこう。筆者が否定したいのは、文化としてのおもてなしではなく、国の姿勢に対してだ。読者の皆様にも、今一度「おもてなし」という言葉を考え直す機会になれば幸いだ。
日本人に染み込んだ「おもてなし精神」
by saitowitz おもてなしという文化が日本人の中でどのように育ち、染み付いてきたのかーーこれを考えるには、まずおもてなしという言葉の語源を知る必要があるように思える。言葉というものは往々にして、人間の中(頭の中)でその原義的な意味を失い、改変されてしまうものだからだ。流行語ともなれば、尚更のことだ。
〈おもてなしの語源〉
(1)もてなすの丁寧語
(2)表裏無し
上記の二文字が組み合わさってできた言葉、それがおもてなしである。もてなすとは文字通り「客をもてなす」で、お客を「モノを持って成し遂げる」という原義を持っている言葉。ここでいうモノとは広義的なモノで、物質的なモノと不可視な事象、両方を含んでいる。表裏無しとは表裏のない感情(心)で、という意味。
これら二文字を通解すると、「表裏のない感情で、客をもてなす」というのがおもてなしの原義的な意味ということになる。いかにも日本人らしい考え方に目眩がしそうだが、確かにこういったホスピタリティ精神は日本人特有のものだ。特に「表裏のない感情で」という点は、街征く日本人の無表情を連想させるものがある。
とはいえ、個人に特有の思考傾向があるように、言葉の捉え方にもまたそれぞれの捉え方があるのは致し方ないこと。原義的な言葉の意味合いなど、悲しきかな、思考という風雪に晒され、いずれその形を変えていくものだ。
では、そもそもの「おもてなし」第一人者・滝川クリステル氏は、どのような意図・意味合いでおもてなしという言葉を用いたのだろうか。
滝川クリステルの云う「おもてなし」
「ユニークにお迎えします」と言いながら、ユニークさの欠片もない滝川クリステル氏のプレゼン全文だった(と言うと、批判されそうだが)。流暢なフランス語、表現力の高いプレゼンテーション、日本人離れした(それでいて、どことなく日本人らしい)美貌。彼女以外にこのプレゼンの大任が務まらなかったことは言うまでもない。
滝川クリステルの言うところのおもてなしは、「見返りを求めないホスピタリティ精神」という文に集約されるのだろう。日本人にとって見返りを求めないこと、それはあまりに普通なことに思えるが、これは確かにオリジナリティの点では世界でも稀有なのだ。欧米諸国にはこういったホスピタリティ精神が欠落している、と日本のおもてなしブーム以来、指摘されることもしばしば。
流行語に乗っかった?
しかし、ここでなんとも滑稽なのが行政の動きだ。2013年を席巻し、流行語大賞にも選ばれたおもてなしだが、そんな流行語の勢いにまるで乗っかるように(釣られるように?)、日本政府もまたおもてなし政策を観光立国の要とし始めたのだ。
無論、これには様々な推察ができる。そもそも、日本政府がおもてなし政策を観光立国の要とするために、滝川クリステルを動かしたという線も考え得るし、ただ純粋におもてなし政策を素晴らしいと思ったという線もあるだろう(いずれにせよ、滑稽なのには変わりないのだが)。
こういった施策が滑稽に思えるわけーーそれは、おもてなし政策は観光政策の要にするほどの価値があるとは思えないからである。その理由、それは海外の人の反応を見れば一目瞭然であろう。
「オモテナシ? Why! Japanese People!」
by Daniele Zedda 日本の「おまぬけ」なおもてなし政策を痛切に批評したデービッド・アトキンソンの一冊『新・観光立国論』には、海外の人が受ける日本のおもてなし文化の印象が書かれている(デービッド・アトキンソンが日本[日本人・日本文化]を批判している訳ではないことは予め明示しておきたい)。海外旅行客のリアルな印象が描かれている一冊として、本項ではこの一冊を参考にしていきたい。
デービッド・アトキンソン曰く、日本のおもてなし政策は決して間違いではない、という。おもてなしという文化は、日本特有の誇るべきホスピタリティ精神である、とも述べている。ただし、これはあくまで「極めて曖昧なもの」とも述べている。
それもそのはず、おもてなしとはあくまで言葉遊びに過ぎず、高いホスピタリティと言っても、それは決して度量衡で測れるものではない。それを日本人風に解釈するなら、「心を込めた接客こそ……」とか「魂を込めれば、言葉の壁も乗り越えられる……」などと阿呆な答えに辿り着くのだろうが、それはあくまで日本人同士の解釈に過ぎない。実質的に外国人に対して効果があるかどうか、また別の問題なのだ。
ホスピタリティが観光立国の「要」となることーーアトキンソンが否定しているのは、こういったおもてなしの過剰評価・錯覚なのだ。実質的なおもてなしの効力ではなく、おもてなしの人気に囚われてるに過ぎないというのだ。
ホスピタリティ精神は低いのに観光大国・フランス
by guymoll ホスピタリティは「それほど」重要ではない、アトキンソンの述べたい論旨はつまるところこういうことだ。その一例として挙げられるのが、年間約8480万人の観光客が訪れる観光大国・フランスである。
旅行したことのある人なら頷けるだろうが、フランス人のホスピタリティはそれほど高くはない(無論、測れるものではないが)。中でも、フランス・パリのホスピタリティは、欧州の中でも最低レベルと言われるほどだという。
そんなホスピタリティ精神の欠片もないフランスだが、観光客は決して減少しないという事実も判明してる。日本人からしたらフランス人の接客力・サービス力は明らかに低いものに見えるかもしれない。しかし、これは海外の人間にとってはホスピタリティなど、観光にとってあまり関係がないという事実の表れではないだろうか。
残念すぎる! 〈日本・おもてなし政策の錯覚〉
出典:caerusgolfcapital.com つまるところ、デービッド・アトキンソンの言いたい論旨はこの文章に集約されるのではないだろうか。民間信仰のように曖昧な言葉としてのおもてなしを主役に据える観光政策こそ、日本の盲点なのではないだろうか。デービッド・アトキンソンの的を得た正確無比な主張に、日本人ながら(日本人だから?)ぐうの音も出ない。
では、果たしてどのような点において、日本のおもてなし政策は錯覚を起こしてしまっているというのだろうか。2020年東京オリンピックも着々と迫る昨今、今一度考え直してみて欲しいおもてなしの問題だ。
「おもてなし」は文化的差異を超えられない
前述にもあるように、「おもてなし」それ自体は悪くない。それを観光政策のメインに据えているという点がお門違いなのだ。それは、おもてなしというものが文化間の違いを乗り越えられないからだ。
デービッド・アトキンソンが日本のおもてなし政策にそれほど感動しなかったように、世界各国の人間を満足させることがおもてなしにできるのだろうか、という疑問は当然の如く湧いてくるのではないだろうか(それが中々湧いてこない日本のお気楽さには酩酊しそうだが)。
2020年東京オリンピックともなれば尚更のこと、世界各国から多種多様な文化の観光客が日本にやってくることだろう。おもてなしを受けたいという人もいるのかもしれないが、それよりも歴史的文化財や自然を体験したいという人の方が多いのは言うまでもない。そんな人たちを果たして「おもてなし」という曖昧なホスピタリティとやらが満足させられるのだろうか、はなはだ疑問である。
“非生産性”という矛盾
おもてなしというものの実態を見れば、その非効率さをまざまざと見せつけられる。全てにおいて行為(オペレーション)の遅い日本のおもてなし。趣・趣向には長けてるかもしれないが、興味のない人間にとってはただの迷惑でしかないだろう。
ましてや、2020年東京オリンピックに向けた観光政策とは思えない非効率さだ。膨大な数の観光客が、かつ局部的に(つまり東京に)やってくるに違いない2020年8月、9月。大変な非効率さを内包したおもてなしという日本流ホスピタリティが本当に通じるのだろうか。
本当に「おもてなし」は価値のある施策のなのだろうか?
「おもてなし」ーーこれが日本独特の文化で、かつ希少なモノであることは紛れもない事実だ。これは確かに世界に誇れるモノではある。
けれど、そんな曖昧なモノを国家政策に取り入れる、というのは明らかにお門違いではないだろうか? 測ることどころか、正確に定義(言語化)することもできないおもてなしに縋る政策の先で始まる2020年の日本の未来は、果たして明るいのだろうか? 今一度、日本のおもてなしについてあなた自身も考え直してみて欲しい。
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