「ミッキー・マウス」の生みの親であり、ウォルト・ディズニー・カンパニーを設立したウォルト・ディズニーの言葉だ。今やディズニーは、世界中の老若男女に親しまれるブランドであり、現代のカルチャーを創り上げている存在といっても過言ではない。
そんな輝かしい成功を収めたウォルト・ディズニーだが、成功するまでの道のりは、実に波乱万丈だ。何度も失敗しては這い上がってきた彼の生き様は、夢を追う人々に勇気を与えるだろう。
今回は、そんなウォルト・ディズニーのライフストーリーや名言を紹介する。
波乱万丈なライフストーリー
自分で描いた絵を売っていた幼少期と毎朝3時半起きの小学生時代
ウォルト・ディズニーは、子どもの頃から絵を描くことやアートが大好きで、7歳の時にはなんと、自分で描いたスケッチを近所の人たちに売っていたという。
そんな芸術少年だったウォルト・ディズニーは、小学生時代で非常に苦労した。その頃、父親が新聞配達業を始め、ウォルト・ディズニーもその仕事を手伝わなければならなかったのだ。なんと、毎朝3時半に起きて新聞配達する生活を、6年間続けたという。
貧困、失業そして転機
出典:pixabay.com 成長し、青年になったウォルト・ディズニーは、漫画家を目指した。そこで、ファースト・ステップとして新聞の漫画を書くことにした。しかし、無名の新人だったウォルト・ディズニーへの仕事の依頼は少なく、日々の生活に困る苦しい時期を過ごしていた。見かねた兄が、広告デザインの仕事をウォルト・ディズニーに紹介し、そこに就職。なんとか生活を立て直すも、仕事の契約更新が打ち切られてしまい、ウォルト・ディズニーは失業してしまう。
by Alan Light その後、ウォルト・ディズニーはある会社に、アニメーターとして雇われる。元々は漫画家を目指していて、アニメーターの仕事は生活のためだったが、仕事をするうちにアニメ制作の面白さに気づき、漫画からアニメへと興味が移っていった。そして、会社の仕事の合間に、個人でアニメ制作をするほど没頭していく。
アニメーターとしての成功と倒産
その後、独立してスタジオを設立したウォルト・ディズニーは、初のオリジナルアニメ作品を発表した。質の高い作品は高い評価を得て、ウォルト・ディズニーの元には仕事が順調に入るようになった。
しかし、アニメ制作に没頭していくうちに資金繰りがおろそかになり、最終的にスタジオは倒産してしまった。この出来事は、ウォルト・ディズニーに経営の重要性を痛感させた。その後、ウォルト・ディズニーは再起を図って映画産業の本場、ハリウッドへと移住する。
ディズニー・ブラザーズ社の設立、ブレイク、そして倒産危機
ハリウッドでは、兄のロイ・ディズニーと共に「ディズニー・ブラザーズ社」を設立した。これが後にウォルト・ディズニー・カンパニーとなる会社だ。そこで制作されたアニメは人気を博し、会社の経営は軌道に乗っていった。
出典:ja.wikipedia.org しかし、ある契約をウォルト・ディズニーが拒否したことがきっかけで、ディズニー・ブラザーズ社は倒産寸前に追い込まれる。しかしウォルト・ディズニーは諦めず、会社の再建に取りかかる。
「ミッキーマウス」の誕生と、ディズニーランドの開設
再建にあたって、新たなキャラクターが必要だと感じたウォルト・ディズニーは、ねずみを主役にすることを決定。このようにして「ミッキーマウス」は誕生した。やがてミッキーマウスは人気キャラクターとなり、世界的な知名度を得てディズニー社の再建に大きな力を発揮する。
出典:ja.wikipedia.org 1955年にはカリフォルニア州にて、ディズニーランドを開設。1965年には、エプコットという名のパークや、フロリダ州にディズニーランド、ホテル等を取り入れたウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートを建設し始める。
ウォルト・ディズニーが残した名言
貧困、失業、倒産を何度も経験したウォルト・ディズニー。しかし、その経験は後の成功の糧となった。
困難にぶつかった際、人は心配や不安に襲われるが、そういった感情に振り回されないことは大切だ。ウォルト・ディズニーも不安定な生活が長く続いたが、どんと構えていたことで最終的に成功を手に入れることができた。
何があっても、アニメ制作の仕事から離れなかったウォルト・ディズニー。この「4つのC」は、ウォルト・ディズニーの大きな原動力だったのだろう。
強い意志が感じられる言葉。まず自分を信じることが、成功への必須条件だ。
ウォルト・ディズニーのライフストーリーと名言からは、どんなに多くの困難が起こっても、あきらめなければ夢は叶うということが学びとれる。今、困難に直面している人も、決してあきらめないでほしい。地道にでも何かを続けていれば、道は開けるものだ。
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