半世紀以上にわたって日本の銀幕スターとして活躍してきた俳優・高倉健。日本男児の鏡である高倉健が亡くなった2014年11月10日。日本中から惜しまれながらも今生に別れを告げた高倉健の死から、はやくも1年という時間が流れようとしている。
『日本侠客シリーズ』や『幸福の黄色いハンカチ』、『鉄道員(ぽっぽや)』など数多のヒット作に出演し、文化勲章も獲得した高倉健。彼は日本男児の鏡として、後世の男たちに数多くの言葉、名言を遺し、己の人生を終えた。
今回は11月7日(土)に、高倉健の一回忌を記念して放送されるNHKドキュメンタリー:ザ・プレミアム「拝啓 高倉健様」に先駆け、高倉健の名言から“高倉健という生き方”を紐解いていく。同じ日本男児として、同じ仕事人として、高倉健の生き方から学べることは多いはず。
日本男児の鏡・高倉健「生き方が芝居に出る」
by pennjapanesecollection 世界中が世界恐慌と各国間の緊張状態に揺れる1931年に、日本の福岡県で生まれた高倉健(本名:小田剛一)。福岡県で育った高倉健の父は旧海軍の軍人で、高倉健は福岡県立東筑高等学校全日制課程商業科を経て、貿易商を目指して明治大学商学部商学科へ進学することになる。
しかし、大学を卒業するも戦後の東京には働き口が少なく、福岡の実家へ帰郷を余儀なくされる。実家では家業を手伝っていたが、1955年、24歳のときに友人のツテで新芸プロダクションのマネージャーになるため喫茶店で面接を受けた。そこにたまたま居合わせた東映のプロデューサーに俳優としての才覚を見出され、東映ニューフェイス第2期生として東映へ入社。
とはいえ、高倉健は俳優になりたかったから東映に入社したのではなく、ただ単純に働き口がそこしかなかったから、泣く泣く入社しただけだった。初めて主演を務めた映画『電光空手打ち』の時でさえ、初めて顔にドーランを塗り、化粧をした自分を鏡で見、情けなくて涙が止まらなかったという。
その後もいまいち俳優という仕事に心から打ち込めずにいた高倉健。そんな彼が、本当の意味で「高倉健」になった瞬間がある。それは映画館で自分の出演している作品を自ら観に行ったとき、通路まで満員になった観客がスクリーンに向かって喝采し、映画が終わると主人公に自分を投影させて、人が変わったように出ていくさまを目の当たりにしたとき。
その光景を見たとき、俳優・高倉健は生まれた。俳優として、映画の中で生きる表現者としての自覚が出てきたのだ。その後は言わずもがな。数多のヒット作を世に送り出し、去年の11月10日をもって83年という生涯を終えた。
そんな高倉健の名言として、こんな言葉が遺っている。「生き方」と「芝居」を紐付けて考えた高倉健。自身の十八番となる侠客映画での役づくりに対して、このように述べている。
「想像を一生懸命かきたててね。僕の(生まれ育った)町は『川筋』って呼ばれるような炭鉱町で乱暴な町だったのね。毎年、お盆の盆踊りのあった後って、必ず殺人があってね。朝、学校行く時、必ずそういう……ムシロがかけてあったりね。そういうのいっぱい見ましたよ、うん。だから僕は品のいい京都とかで生まれて育ってたら、とてもヤクザものはできてないでしょうね」
自身が経験してきたこと、生まれ育ったライフスタイルが侠客(=ヤクザ)という役に図らずも役に立ったと述べる高倉健。取ってつけたような演技では人の心は動かせない。生の演技こそ、人の心を穿つものになる。つまり、高倉健という生き方は彼の演技そのものなのだ。
「無言・無表情・棒読み」の真実
高倉健の演技はときに「無言・無表情・棒読み」と評されることがある。これは批判的な意味合いで用いられるときもあるが、高倉健はそういった自身の演技に対してこのような名言を遺している。
「たしかに……」と得心してしまった人も多いのではないだろうか。映画の中で、ひとつの物語の中で出来事(ストーリー)を展開させたり、人物のインナースペースを表現するのに一番ラクな方法。それは「台詞」にしてしまうことだ。誰かが亡くなったら「悲しい」といった類のセリフを、その感情の持ち主に言わせればいいのだ。
だが、それは本当の演技ではない。高倉健の名言が主張するところは、それすなわち高倉健という俳優の演技そのもの。本当の反応を表現するのは言葉ではない。「言葉はいつも心に足りない」(『亡念のザムド』より)。高倉健の「無言・無表情・棒読み」は、高倉健の信じる「本当の」演技の在り方から来ているのだ。
高倉健が遺した五つの名言
男の名言 - 其の壱
高倉健は83歳で亡くなったわけだが、実は彼は死の直前まで次回作の準備をしていたという。常に行動し続けた人生を送ったからこそ、高倉健は半世紀にわたって銀幕スターとして在り続けられたのは確かだ。
しかし、高倉健はそれらの結果よりも、なぜそれをしたのか。つまり、なぜそのような決断をし人生を歩んだか、その方が大切だと述べている。映画を見てくれる人々のために俳優としての人生を歩んだ高倉健。あなたは何のために仕事をしているだろうか。
男の名言 - 其の弐
マネージャーの面接で、偶然にもその才覚を見出され銀幕スターへの道を歩むことになった高倉健は、人との出会いに関してこのような名言を遺している。「人にとっていちばん大切なのはこころ」という、高倉健の考え方が伺える名言だ。
男の名言 - 其の参
これも前項に引き続き、高倉健の思想が溢れている名言。こころをその第一とする高倉健にとって、感情もまた彼を人間足らしめる重要なファクターだったのだろう。映画という表現の世界で生きてきた高倉健は、感情の偉大さを誰よりも分かっていたのかもしれない。自分の感情に素直に生きた。それが高倉健の俳優という仕事にもつながっているのかもしれない。
男の名言 - 其の肆
高倉健の人間観は、何者も疑わないという気持ちで溢れている。人と人の繋がりを大切にする高倉健。その分、人と触れ合うことも、そこに蟠りが生まれることも人一倍多かったのだろう。
人に対する印象など個々人の実感に過ぎないのに、人はある人が自分のイメージと違っていただけで「裏切られた」なんて思う。それは自分がその人のことを本当の意味で理解できていなかっただけのこと。演技の場で生きてきた高倉健らしい名言だ。
男の名言 - 其の伍
高倉健の名言の中でも一際男らしい名言。愛する女性のために俳優になった高倉健。スカウトされても、いまいち乗り気になれなかった高倉健。でも、愛する女性のためなら、と俳優になることを自分の中で決意した高倉健。日本男児として見習いたい姿勢だ。
高倉健という生き方。同じく日本男児として、あなたの目にはどのように映っただろうか? 高倉健の遺した名言は、あなたの心を穿つ名言たちだっただろうか? 人はいずれ死ぬ。それは避けられぬ運命。
デカルトは言う。「良き書物を読むことは、過去の最も優れた人達と会話をかわすようなものである」。亡くなった偉人たちから学ぶことを忘れてはいけない。それを語り継ぎ、さらなる後世に残していくのは我々の仕事なのだ。あなたも高倉健という生き方を知り、語り継いでいって欲しい。これが高倉健からの最後の名言、もとい遺言だ。
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