1973年10月22日。阪神甲子園球場で巨人が阪神を破りV9を達成した日だった。そんな歴史的な日に生まれた少年。それがイチローだ。
「世界のイチロー」として、日本を代表するプロ野球界、いやMLB(メジャーリーグ)のレジェンド・イチロー。42歳になった今でも、イチローのバットコントロールや俊足、レーザービームは健在である。しかし、今季がイチローにとってひとつの区切りの年となったのは確かだ。オリックス時代の1994年から21年にわたって続けてきた「シーズン100本安打」の記録が、ついに終わりを迎えたからだ。
何も筆者はそんなイチローに対して「ピークはまだ終えていない!」と擁護したいわけではない。確かに一記録への彼の挑戦は一旦終わりを迎えたが、今のイチローがその記録の終わりをどう考えているかは推し量ることすら難しい。
しかし、イチローという人間が決して諦めない人間だったという点は揺るがないことだ。自分で自分の天井を決めずに、自分の限界を追求し続けたイチロー。そんなイチローの名言からは、イチローという人間の軸のブレなさ、もとい行動の一貫性というものを見出せる。それはイチローの放った数々の名言にも、ひとつの軸として表れている。
「大事を成す」イチローの五の名言
愛知の片田舎の生まれであるイチローは、子供の頃から野球を愛し、プロ野球選手を目指していたという。地元のバッティングセンターにほぼ毎日のように通い詰め、小学生でありながら、130km/hの球を軽々と打ち込んでいたという逸話も残っているほどだ(おそらく全国大会の頂であったとしても、130km/hの球を投げる小学生などそういなかっただろうが)。
中学校を卒業後、地元でも有数の強豪校・愛工大名電高校に進学。高校1年生の頃にはレギュラーを獲得し、2年時に夏の甲子園、3年時には春の選抜と2度の甲子園出場を果たすも、初戦敗退という結果に終わっている。
甲子園では初戦敗退ながら、ドラフト4位でオリックス・ブルーウェーブ(現オリックス・バファローズ)に入団したイチロー。1992年当時は、「鈴木一朗」という本名で一軍戦出場を果たす。1992年はイチローにとってとても好調なシーズンで、新人でありながら、打率.366をマークし、ウエスタン・リーグの首位打者を獲得した年でもあった。
プロ野球選手として華々しいスタートを切ったイチローだったが、続く次シーズンは一転して二軍ライフとなる。打率が1割台だったというのがこれの大きな原因で、それには当時から挑戦していた「振り子打法」という打法が、イチローの中でしっかりと確立できていなかったことに起因していると後のイチローは語る。
急に一軍から二軍に落とされたら、あなたはどう思うだろう? ちなみに日本のプロ野球における一軍と二軍の格差は、天と地ほどにかけ離れている。二軍は、ほんとうにスポットの当たらないプロ野球空間なのだ。
しかし、そこでイチローは諦めなかった。どんな逆境にあっても、その原因を探そうと必死にもがいた。そして、二軍打撃コーチの河村健一郎と二人三脚で、日本時代のイチローの代名詞ともなる「振り子打法」を完成形へと導いたのだ。
イチローの名言に学ぶ「行動の一貫性」
by themikelee イチローという人間の何がもっとも凄いのか。それは、その行動の一貫性だ。決してアスリートとしてではなく、ひとりの人間として、大事を成すために一歩一歩邁進すること。
努力というものは、必ずしも目に見える結果となって返ってくるわけではない。それは誰よりも努力した(という言い方をイチローは嫌うだろうが)イチローが一番よく分かっていたことだろう。
「自分のしたいこと」「立ちたいステージ」に向かって、途方もない努力を続けることほど難しいことはない。何も返ってこないかもしれない、無駄かもしれない、そう思いながら努力することは。
しかし、大事を成せる人は総じてそういった努力のできる人間なのかもしれない。少なくとも、イチローはそういった努力のできる人間だった。その途中で捨ててきたものも少なくはないだろう。それでも彼は自分の成し遂げたいこともために、辛い現実も乗り越えてきた。それがイチローという人間、もとい「大事を成せる人間」なのではないだろうか。
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