「世界のクロサワ」として、世界の映画史にその名を刻み込んだ映画監督・黒澤明。黒澤明のダイナミックかつヒューマン・リアリティーに富んだ30を超える作品たちは、今でも数多くの人々の心を穿つ唯一無二の映画となっている。
そんな映画監督・黒澤明の名言からは、彼の仕事・映画に対する黒澤明らしい正直でありながら、同時にポジティブな捉え方が見て取れる。黒澤明の名言には年齢や職種に限らず、ひとりの仕事人として生きるためのヒントが詰められている。
「生きているのはいいものだよ」
泣き虫でいじめられっ子。それが黒澤明の幼少期であり、気の弱かった彼にとって、人と関わることは必ずしも楽しくはなかったという。そんな中にあって、小学生の頃に授業で習った絵画は、彼に何かを作るというものづくりの楽しみを教えてくれた最初の存在だったという。
ご存知ない方も多かろうが、黒澤明が最初に抱いた夢は映画監督ではなく、絵描きだったのだ。彼に人生の楽しさ、面白さを教えてくれた絵画は、彼の夢となったのだ。
これは黒澤明という男に限った問題ではない。人生を楽しく生きるには、何かを楽しいと思わなければならない。それが幼少期の黒澤明にとっての絵画であり、大人になってからの映画だったのだ。
それと同時に、これは「冒険」とみなすこともできるとは思わないだろうか。人生は競争じゃない。誰かに焦らされる必要はまったくない。何かに向かって一歩、また一歩と自分の足で歩いていくこと。その一歩を毎日踏み出すことは、人生というストーリーを冒険することと何ら変わらないのではないか。あくまで個人の解釈だが、少なくとも筆者はそう感じた。
「君たちは、努力したい何かを持っているはずだ」
黒澤明の名言を聞いていると、本能的に「愛」という言葉を浮かべてしまう。彼は映画を愛し、それに夢中になることを愛し、そして映画を愛する自分の人生までをも愛した。それらは決して尽きない欲求となって、彼の中で原動力になるのだ。
人間というものが……という哲学的なことを述べる気はないが、人にとって愛するということは人生を彩るものではないだろうか。黒澤明は映画を愛した。だから映画界の巨匠になれた、というわけではない。その愛が尽きることのない原動力になったからこそ、映画に打ち込み、妥協を許さなかった。だからこそ、映画史に名を残せる映画監督になれたのではないだろうか。
「一生懸命に作ったものは、一生懸命見てもらえる」
黒澤明の映画には、一切の妥協が見られない。丁寧に編まれたカメラワーク、ストーリーで魅せるのでなく役者で魅せる。120分間の全てから映画監督としてのこだわりが感じられる。
それは彼の生まれつきの性分でもあったのだろうが、単にそれだけということはない。彼は自分の映画という仕事を驕るでもなく、ただひたすら、ただ無心になって映画を撮り続けた。それが30本以上の名作を世に送り出してきた黒澤明の仕事術だったとも言える。
映画監督という職業は、強いプレッシャーと生みの苦しみを感じる酷な仕事だ。結果を求められながら、その全責任を一身に背負わせる。作家や科学者に早死が多いのにも、これは大きく関係している。求められるハイクオリティと利益。
そんな戦場で生き抜いてきた黒澤明だからこそ放てる言葉、もとい名言というものもある。ガムシャラになって取り組むこと。決して妥協をしないこと。そして、そんな物は誰の目にも明らかになるのだ。
彼にとって映画とは彼の人生そのものであり、それは同時に彼にとっての仕事だった。それは彼がそう生きたいと願った結果であり、確かに彼にはその手の才能があったともいえる。
しかし、彼が本質的に我々、後世の人々に伝えたかったのは、仕事に対する捉え方だったのではないだろうか。
彼の名言には、聞く人にそう思わせる力があると筆者は考えているし、それ故に黒澤明をフィーチャーした。
あなたは仕事をどう捉えているだろうか? 生きるため? 食べるため? 暇つぶし? 若輩者の甘い考えかもしれないが、黒澤の言葉から感じたのは、仕事を愛するということ=仕事愛。何事も没入すれば、楽しいものになる。それこそが黒澤の生き方であり、仕事術なのではないだろうか。
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