「日本一かっこいい男」「日本ダンディズムの祖」などの異名を持つ男・白洲次郎をご存知だろうか。2009年に放映された伊勢谷友介氏主演のNHKドラマで知った人も多いだろう。戦後日本の復興において、白洲次郎は影の立役者といえる。
今回、知って欲しいのは彼の功績よりも、人間としての“生き様”のほうだ。そこにこそ、白洲次郎という男がこのような異名で称されたわけが隠されている。白洲次郎の言葉はひどく直接的で、そこには少しの躊躇もない。だからこそ、私たちの胸に突き刺さるのだ。
戦後日本の影の立役者・白洲次郎とは?
1902年生まれで、まさに20世紀を生きた男・白洲次郎の幼少期は、実は巷でも札付きのワルだったという。中学校に入学すれど、起こすのは暴力事件ばかり。中学校での成績は中の下以下で、成績表には「やや傲慢」という評価まで書かれていたという。
白洲の人生を大きく変えた人物のひとりである父・白洲文平は、明治初期の英学校・築地大学校を卒業後、米ハーバード大学や独ボン大学への留学を経験しており、当時はまだ珍しい世界的な視野を持っている人物だった。
また、祖父・白洲退蔵はキリスト教系の神戸女学院の創設に関わっており、白洲家には外国人女性教師が寄宿していた。
こんな環境からか、やんちゃ坊主の次郎くんも「英語」だけは堪能だった。そして1919年、中学校卒業と同時に、イギリスのケンブリッジ大学に聴講生として留学。これは彼の人生にとって、非常に重要なターニングポイントとなっただろう。白洲は留学することで英語という自分の武器に磨きをかけたのだ。
日本を嫌い、日本を愛した男、白洲次郎。
とはいえ、筆者は当時のやんちゃ次郎が「英語を学びたいから」という素直な発想でイギリスに飛んだということはないだろうと考える。彼には日本の空気が肌に合っていなかったのかもしれない。純粋に日本が嫌いだったという見方もできる。
要は「結果」なのだ。一体誰が次郎が留学し、英語に堪能になることが、後の日本を支える重要なキーポイントとなると考えただろうか。
未来への可能性ばかりにとらわれるのではなく、自分のしたいことをする。特に若いうちはそういった心構えが大切なのではないだろうか。それが結果として未来の自分に繋がるのかもしれない。
“従順ならざる唯一の日本人”
話は飛んで第二次世界大戦後の日本。1945年当時、白洲次郎は政治・実業界から距離を置き、東京郊外にある鶴川村(現在の町田市)の武相荘で農業に従事していた。
しかし、戦前から親交があった当時の外務大臣・吉田茂の依頼を受け、終戦連絡中央事務局というGHQとの折衝を担う機関に参与として参加する。
アメリカ側が圧倒的に優位な事務局で、彼はアメリカ人に“従順ならざる唯一の日本人”と言わしめるに至った。それは白洲の決して妥協を許さない姿勢からきたもので、主張すべきところはイギリス訛りの英語で頑として訴えたのだ。
彼は決して傲慢だったわけではない。だが同時に、「日本の為だ」などという大それたことを考えていたわけではない。彼はただただ自分の信念のもとに行動していただけなのだ。
プリンシプルという言葉の意味には諸説あるが、自分の身体の中心を貫く一本の「柱」みたいなものだと筆者は解釈した。決して折れることのない鋼鉄の柱。そういった柱=プリンシプルを自分の中で持つことが、白洲なりの人生に迷わないための(「迷わない」と「成功する」は違う)秘訣だったのだろう。
あなたの心には、脳には、どんな柱が立っているだろうか。鋼鉄の柱? 木製の柱? それとも、ない?
マッカーサーに喝を入れた唯一の日本人?
白洲の芯の通った性格は、GHQ最高指揮官であったダグラス・マッカーサーが相手であっても折れることはなかった。
昭和天皇からのクリスマスプレゼントを「その辺にでも置いといてくれ」と無下に扱ったマッカーサーに、「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、マッカーサーに持って帰らせようとして当惑させたという逸話が伝わる。
この話には判然としない部分もあるというが、こういった武勇伝がまことしやかに語られ続けるあたりが白洲の性格の性格を表しているといえよう。
強いプリンシプル=柱を持っている次郎だからこそ言えてしまった一言だったのだろう。こういった発言がその場において、本当に適切だったかどうかは分からない。
しかし、彼のプリンシプルは自分の信念のためであれば、日本を支配する立場であるマッカーサーであろうと見境なし。それが白洲次郎という男の人生を形成する「決して折れない」プリンシプルというものなのだ。
「人に好かれようと思って仕事をするな」
1951年、日本の主権回復を定めるサンフランシスコ講和会議。ここでも全権団顧問として同行していた白洲次郎のプリンシプルが火を吹く。
外務省から回ってきた吉田茂首相の受託演説の英文スピーチ原稿を見た白洲はこれに激怒。「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と外務省の役人を怒鳴りつけたという。
それというのも、最初に外務省から回ってきたスピーチ原文は、GHQからの許可を得たかのような当たり障りない文面で、おまけに英語でスピーチするというものだったのだ。
白洲の一喝でスピーチ原文は急遽日本語へ書き直され、原稿は随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30m、直径10cmにも及ぶ巻物となった。内容には新たに奄美群島、沖縄並びに小笠原諸島等の施政権返還が盛り込まれた(※このエピソードにも詳細には諸説ある)。
「戦争の終わり」を「戦後の終わり」と位置付けていた白洲にとって、サンフランシスコ講和会議は夢にまで見、願った舞台だったのだろう。どんな場においても、彼は決して自分のプリンシプルを曲げることはなかったのだ。
出典・参考文献
◆武相荘公式サイト:白洲次郎
◆国際留学生協会:白洲次郎-向学新聞
◆多摩大学:「中里介山・白洲次郎にみる成り上がり新中間層と多摩地域の関係」 (2012年1月、社会工学研究会)
◆新潮社:著者紹介 - 白洲次郎
◆朝日新聞:「旧白洲邸、懐かしくて刺激的 町田」(2018年5月24日、東京地域版)
◆日本経済新聞:「白洲次郎 ジーンズ姿に「米国、何するものぞ」の気概」(2019年11月13日、電子版)
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