一億総中流の時代は過ぎ所得格差などの格差は日々広がっていく。格差社会のもと、その「不幸」が報じられる若者たち。だが統計によれば、20代の75%が現在の生活に「満足」しているというデータがある。本書『絶望の国の幸福な若者たち』では、このような世間の誤った若者の理解を、社会学者である古市憲寿が様々な統計のデータをもとに暴き出している。
この記事では、若者ではなくなった中高年たちが理解している間違った若者の姿と、若者である古市が考える若者の真の姿を紹介したい。
若者の海外離れの勘違い
少し耳を傾ければ、世の中には様々な若者論が溢れている。
例えば若者の海外離れだ。戦後は、安価で海外の文化に触れることが出来るバックパックをすることが20代の間で流行った。バックパッカーたちは、横に長い大きな荷物を背負い横歩きで電車内を移動するという姿からカニ族という名前で呼ばれていたのだ。いまそのようなバックパッカーを見ることはなくなり、カニ族という単語は死語になっていった。
このような状況だけ見れば、確かに若者は海外離れしているように中高年たちには見えるだろう。そして、「今の若者はグローバルな視点を持たなければいけないのに、なぜ海外離れをしている」と中高年たちは若者を批判する。
けれども統計学からみれば、若者が海外離れしているとは一概には言えない。少子化によって若者の母数が明らかに減少しているからである。現代と戦後の20代の海外渡航者数の割合を比べてみると、20代の渡航者数はあまり変わらないのだ。
若者論は中高年の自分探し
このような若者論は、様々な時代で繰り返し流行していると古市は指摘する。繰り返される原因は、自分が年をとって世の中に追いついていけなくなっただけなのに、それを世代の変化や時代の変化と勘違いしてしまうからである。若者論に限らず、ほとんどの「日本人が変化した」という議論もこれで説明できる。
さらに、若者論は自己の確認作業でもある。「今時の若者はけしからん」と苦言を呈する時、それを発言する人は自分がもう「若者」ではないという立場に立っている。そして同時に、自分は「けしからん」異質な若者とは別の場所、すなわち「まっとうな」社会の住民であることを確認しているのだろう。
つまり「若者はけしからん」と、若者を「異質な他者」と見なす言い方は、もう若者ではなくなった中高齢者にとっての自己肯定であり、自分探しなのだと古市は指摘する。
ムラムラする若者たち
ここまで、中高年たちの若者に対する勘違いを紹介してきた。ここからは、3.11の時にボランティアに立ち上がった若者から、古市が紐解く若者の姿を見ていこう。
現代の若者たちは「今、ここ」に生きる生活に満足しながら、同時にどこか変わらない毎日に閉塞感を感じていて、どこかでその出口を探している。この出口を見つけたいという「ムラムラ」した気持ちを若者は抱えている。このムラムラは、自分と同じような仲間と過ごし「村々」することで解消していると古市は指摘する。「村々」を打破させてくれるような非日常への期待が、若者たちをボランティアなどに向かわせたのだ。
ムラムラする原因は、その彼らがコミットする対象が見えにくかったことにあり、つまり「社会」との具体的な接点が不在だったことだ。そのため、個人よりも「国や社会」のことを大切に考える若者が多いにもかかわらず、多くの若者たちは動きだせずにいたと古市は指摘する。
しかし震災では、「被災地支援」というコミットすべき対象が、わかりやすい形で出現した。若者たちは「何かをしたい」というムラムラする気持ちを抱えながら、実際には変わらないメンバーと同じような話を繰り返して「村々」している。そして「村々」を打破してくれるような「非日常」があれば、ムラムラしてそれに飛び込んでいく。これが、現代の若者の姿の一つなのである。
この記事では、本書で紹介されている古市の研究の一つの側面を紹介した。本書では、様々な古市の若者に対する中高年たちの勘違いが紹介されていて、本書の中の注釈には思わず笑ってしまうような古市のシニカルな批判が溢れている。若者の真の姿をより詳しく知りたいあなたには、ぜひ読んで自分の勘違いに気づいてほしい。
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