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勇退 智弁和歌山・高嶋仁の「仕事の流儀」:「甲子園で最も勝った監督」はどう常連校を創ったか

Yasutaka Nagataki

2015/08/19(最終更新日:2015/08/19)


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勇退 智弁和歌山・高嶋仁の「仕事の流儀」:「甲子園で最も勝った監督」はどう常連校を創ったか 1番目の画像
出典:commons.wikimedia.org

 今年の夏の甲子園もいよいよ大詰めだ。野球の神様の仕業としか思えない番狂わせが次々に起こる様子を見ていると、なぜ甲子園がここまで人気なのかがよくわかる。今年の番狂わせの一つに「智弁和歌山高校(智辯和歌山高校)」の一回戦敗退があった。演奏が始まるとなぜかビッグイニングが生まれる独自の応援歌「ジョックロック」が魔曲として風物詩になるほど、甲子園常連校の智弁和歌山だったが、今年はあっけなく敗北を喫してしまった。

 ところで、智弁和歌山と言えば、応援歌だけでなく「ある人」も有名だ。智弁和歌山高校 野球部監督・高嶋仁である。監督として甲子園最多勝利数を記録している高嶋仁だが、今年いっぱいを以て勇退する決意を固めているとのこと。高嶋仁が監督として選手と迎えた甲子園は、今年の夏の甲子園が最後になりそうだ。

 今回は、そんな智弁和歌山高校・高嶋仁が監督として、どのように野球部を引っ張り、常連校を創りあげたのかを紹介しよう。

高嶋仁のモットー:「常に全力を出し切る」

 高嶋仁のモットーは「常に全力を出し切る」というものである。「(強豪の)天理高校が4時間練習するのなら、うちは8時間練習すればいい」というような、高嶋仁はある意味で破天荒なまでの“全力”精神の持ち主であった。

 当然最初は、高嶋仁の方針に対して納得のいかない選手が多かった。兄弟校である奈良県・智辯学園で監督を務めていた時代には、選手にボイコットをされてしまうこともあった。しかし、それでも諦めずに監督として選手に想いを伝えた結果、選手たちが少しずつ高嶋仁に心を開いていったのだ。

 では、選手に伝えた想いとはいったい何なのか。それは、高嶋仁自らが経験した、甲子園出場ということへの感動の大きさである。

高嶋仁の原体験:「甲子園出場」

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by ryosalem

「自分が甲子園に出場して感動した思いを選手たちに話しました。足がガタガタ震えたこと、そして監督をやっているのは、選手たちにも同じ経験をしてほしいからだと。するとね、主将だった選手が『監督、わかりました。一緒に甲子園を目指しましょう』と言ってくれてね・・・。はじめてお互いに分かり合えた気がしました」

出典:高校野球名将列伝(その2)智弁和歌山高・高嶋仁監督「甲子園出場の ...
 智辯学園の選手たちに足りなかったこと、それは「甲子園に向かう気持ち」であった。そのため、高嶋仁は自身の甲子園出場経験を話し、「どうしても甲子園に連れていきたい」という想いを伝えた。

 高嶋仁は選手として初めて甲子園に降り立った時、これから戦う選手や周りの熱気など、その全てに感動した。この感動を自分以外にも経験してほしい一心で、高嶋仁は野球部の監督を志したのだ。その想いがあるからこそ、監督として率いているチームには甲子園を経験させてあげたいという熱意があるのだ、ということを高嶋仁は選手に伝えたのである。

 すると、当時の部長が「それなら監督についていく」と意思を固め、ボイコットを辞めさせることに成功した。それだけでなく、高嶋仁と選手との距離が大きく縮まったのである。

高嶋仁が智弁和歌山を“甲子園常連校”に押し上げた2つの秘策

高嶋仁の秘策①:「県大会ベスト4までいけば、4回テレビに映る」

 高嶋仁が監督就任した当初の智弁和歌山に足りなかったこと、それは「意欲ある人」の流入であった。高嶋仁が監督して迎えられた当初、智弁和歌山には優秀な人が入ってくる環境がなかった。

 和歌山県の高校野球大会は、一つの球場ですべてが行われるため、試合の全てがテレビ中継されるという特徴があった。高嶋仁は、「そこを利用しない手はない」と考えた。

 高嶋仁は弱小であった智弁和歌山を和歌山県のベスト4まで進出させ、県内のテレビを利用して中学生に「智弁和歌山は中々できる」というイメージを与えた。そうしてやってきた「意欲ある」高校生をたたき上げ、県大会の上位に食い込ませるサイクルを実現した。そして彼らが上級生になった時に、初めて甲子園出場が実現したのだ。実に6年越しの計画が実った、ということになる。

 恐らくここまで読んできて多くの人が疑問に思うのが、「なぜ弱小だった智弁和歌山を県大会ベスト4まで進めることが出来たのか」である。ベスト4まで進むのであれば、もうその高校は弱小校などというものでは到底ない。

高嶋仁の秘策②:“強豪”池田高校と戦い、何が足りないのかを認識させる

 智弁和歌山の弱小脱出のカギは、「実戦経験の多さ」にあった。高嶋仁は、テレビでのイメージ戦略と同じくらい、もしくはそれ以上に「選手に強豪との違いを肌で感じさせること」を大事にしている。

 高嶋仁は、智弁和歌山が弱小だった当時から強豪高校として名高い、徳島県・池田高校と練習試合を行っていた。もちろん結果は惨敗、それどころか何時間やっても終わりのない試合に、智弁和歌山の選手たちは悔しさのあまりプレー中に涙を流していたという。

 その日から、智弁和歌山の選手たちは目の色を変え、練習に熱心に取り組むようになった。自らの弱さを自覚したことで、甲子園に対して何が足りず、何を伸ばしていけばいいのかを進んで把握し、改善していく姿勢になったのだ。こうして、智弁和歌山は弱小校という汚名を脱することが出来た。

高嶋仁のノック:「97%の力では取れない、100%の力で初めて捕れる球を打つ」

 智弁和歌山と言えば、魔曲を演奏し始めてからの“打線”に目が行きがちだが、実は高嶋仁にとって最も大事だと考えているのが“守備”である。和歌山県にあるもう一つの強豪校・箕島高校も、高嶋仁に言わせてみれば「箕島は守備が強い。(試合展開は)地味だけど試合が終わったら勝っている」とのこと。

 高嶋仁が行うノックは、他の高校で行われているノックとは一味違う。高嶋仁は、選手が捕れるか捕れないか、ギリギリのラインに球を打つ。本人曰く、「97%の力では捕れないが、100%の力を出せば捕れる」場所だという。

 このような非常に過酷なトレーニングを選手に課すことで、練習のための練習となることを防ぎ、高嶋仁は選手を成長させていった。こうして育て上げられた智弁和歌山の守備は、他の高校とは一線を隔している。

高嶋仁の采配:「投手は一人じゃない。エース番号は関係ない」

 高校野球と言えば、一人を9回まで完投させ、一日で200球近い球数を投げさせるようなシーンをよく見る。いわゆる「エース級」ピッチャーがチームを支えている状態だ。

 高嶋仁も、かつてはこのような状態を作り出していた。しかし、元プロ野球選手・高塚信幸が高嶋仁のこの采配によって肩を壊してしまい、以後プロ野球の世界でも日の目を浴びることなく引退してしまった。このことがきっかけで、高嶋仁はこの方針を捨てた。

 現在では、一人の投手を酷使するようなことを一切せず、エース級ピッチャーでも調子が悪ければ1回で交代するというような采配に切り替えた。無名な選手も控え投手としてうまく使い、「チームで」勝ちに行く戦略となっていったのだ。

 結果、甲子園開催途中でエース級が故障するような事態もなく、試合展開に合った采配を常に行えるようになった。この采配力には、元楽天イーグルス監督・野村克也も大絶賛だ。


 高嶋仁無くしては、智弁和歌山が強豪校たりえることはまずあり得なかっただろう。優れたチームの成立した背景には、必ず優れたリーダーがいるのだ。僕らはまた、来年の夏、「ジョックロック」を待っている。

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