あなたは、「正義」や「悪」をどのように判断しますか? こういった抽象的な問いは、簡単に答えが出せるものではないため、ニュースなどの情報を通じて「正義」と「悪」を判断することが多いのではないでしょうか。
この「正義」と「悪」の問いに関して、考察を続けたのが政治哲学者であるハンナ・アーレント。彼女は、第二次世界大戦時、ナチス政権下のドイツでユダヤ人として迫害を受けた後、アメリカに亡命しました。その経験を通して展開される「正義・悪とは何か」という考察は、非常に興味深い内容です。
今回は、金沢大学法学類学者である仲正昌樹氏の『今こそアーレントを読み直す』という本から、アーレントの「悪」に対する考察の一部をご紹介します。
物事の「分かりやすさ」に潜む危うさ
政治的な問題など複雑な問題をメディアは、「分かりやすく」編集して発信します。「分かりやすさ」を素直に受け入れたり、考えること無くメディアの意見をそのまま自分の意見にしてしまいがちな状況は、思考を単純化させる原因になると著者は述べています。
複雑なものを複雑なまま考えることの重要さが、アーレントの考え方を知る上で大切だそうです。次に、アーレントの思想を掘り下げてみましょう。
アーレントが「アイヒマン裁判」で見たものとは
ユダヤ人のホロコーストに関与していたとされるアドルフ・アイヒマンの裁判で、アイヒマンの驚くべき人物像が明らかになりました。残虐行為を行う、極悪非道の人物ではないかと噂されていたものの、実際は職務を淡々と行う、真面目さのある「ごく普通の人間」だったそうです。
「悪者」は人格に問題があるという、ある種の「悪」に対する常識が「アイヒマン裁判」によって一瞬で覆されたのです。アーレントは、至って平凡な「普通の人間が行う悪」に着目し、我々の常識の中の「悪」とは全く異なるものとして、「悪の陳腐さ」と名付けました。
「悪の陳腐さ」を考える
アーレントの「悪の陳腐さ」という考えを紐解くと、誰もが自分自身の立場によってアイヒマンのようになり得るということになります。言い換えれば、普通であるがゆえ、普通を疑うこと無く、考えを持たず「悪」を実行する可能性があるということ。
この考えを、アーレントがアメリカの雑誌『ザ・ニューヨーカー』に裁判の傍聴記録と共に掲載したことで、シオニストを始めとする多くの人々に批判されることになりました。なぜ、この考えに批判が生まれるのでしょうか。
著者によると、「普通の人間」がホロコーストは起こさないという「先入観」を持ち、アイヒマンのような「悪者」には、普通と異なる“人格があるに違いない”という想定によって「正義感」が生じ、糾弾するそうです。
「悪の陳腐さ」というアーレントの考察は、「人間には、自由意志と自律性を持ち合わせており、『善い行い』をする主体性がある」という「正義」の論理を改めて考察し直す機会を生み出したといえます。
アーレントの考えは、決してアイヒマンを擁護したのではなく、「アイヒマンの行いは罪であり、死刑判決は正しい」という意見を持っています。しかし、そこで単純に「正義」と「悪」に分けるのではなく、なにが「悪」なのかを考える必要があるというものです。
今回『今こそアーレントを読み直す』では、一般常識的な「正義」や「悪」を単純に受け入れることの危うさに焦点を当ててご紹介しました。アーレントの政治哲学を通して、物事を深く考えるきっかけにもなるでしょう。気になった方は、ぜひ読んでみてください。
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