生活の中では、しばしば誰かと議論をすることがあります。その時、あなたは何を考えていますか? おそらく、何とかして自分の主張を通そうと考えているのではないでしょうか?
しかし、哲学者のコーエン氏は、現在の議論の在り方は根本的に間違っていると語ります。議論に勝とうとするあまり、私たちは議論から得られるはずの多くの利益を取りこぼしているようです。ここでは、たくさんの議論を経験してきたコーエン氏が、より良い議論をするアイデアを語った TEDの講演を書き起こします。
スピーカー
ダニエル・H・コーエン / 哲学者
見出し一覧
・議論が上手な人ほど議論に負ける
・議論には3つのモデルがある
・「戦争の言葉」が議論を歪める
・本当に勝ったのは誰?
・負けても「良い議論だったね」と言ってみる
動画
議論が上手な人ほど議論に負ける
私はダニエル・コーエン、学者です。職業柄いつも議論をしています。議論は私の生活の大切な要素ですし、議論することが好きです。私は単なる学者ではなく哲学者なので、議論はかなり上手だと思いますし、議論について考えることも同様に好きです。
私は議論について考えるうちに、何度も難問に出くわしました。そのひとつは、こうしたものです。私は議論について考えて何十年にもなるし、どんどん上達しているのに、上手になればなるほど、議論に負けるようになるのです。
そして、もうひとつの難問は負けても気にならないこと。なぜ負けても平気なのでしょうか? 議論が上手な人たちは、なぜ負けるのが上手なのでしょうか?
難問はまだあります。なぜ私たちは議論するのか? 誰が議論で得をするのか? ここで言う議論とは、学問的または認識的議論とでも呼ぶべき、認識にまつわる議論です。例えばこの命題は真か、この理論は優れているか、このデータや文章の解釈は妥当か、そういったことです。
私があまり関心がない議論は、誰が食器を洗うかとか、ゴミを出すかといったものです。もちろん家庭ではそんな議論もしますし、コツを知っているから勝つ自信もあります。ただ、それは重要な議論ではありません。関心があるのは、現代の学問的議論のほうです。
私が抱えている疑問を紹介しましょう。まず議論が上手な人が勝つことで得るものはなんでしょう? 例えば、「道徳理論の枠組みとして功利主義は適当でない」と説得して、私が得るものは何なのでしょうか?
そもそもカントの主張は妥当だとか、ミルは倫理学者の手本だと相手に考えさせることが私に関係があるのでしょうか? 機能主義は妥当な心の理論であると誰が考えても、私には関係ないはずです。では、なぜ議論しようとするのか? なぜ人々を説得して何かを信じさせようとするのか? それは良いことなのでしょうか? 必要のないことを考えさせるのは、人に接する態度として適切か? 私は議論の3つのモデルに触れながら答えていきたいと思います。
議論には3つのモデルがある
では、議論の3つのモデルを紹介しましょう。1つ目の「弁証法モデル」では、議論を戦争と捉えます。何となくわかるでしょう。戦争にも議論にも大声をあげたり、怒鳴ったり、勝ち負けがあります。実際にはそれほど役立ちませんが、「戦争としての議論」のモデルとして定着しています。
2つ目のモデルは、「証明としての議論」です。数学者の議論を考えてください。彼らの議論はこのように進みます。まず議論は適切か、そして前提は正しいか、推論は妥当か、結論は前提から導かれているか、というようにです。ここには反論も対立もありません。意見の対立は必ずしも必要ではないのです。
実は役に立つ第3のモデルは、「パフォーマンスとしての議論」です。これは聴衆の前で行われる議論です。そう聞くと、政治家が自分の立場を表明して、聴衆を説得する場面が思い浮かぶでしょう。
このモデルには、さらに重要な側面があります。議論する際に、聴衆も一定の役割を担うことになるからです。それは、陪審員の役割です。ここで行われる議論は、評決を下す陪審員を前にした主張のようなものになります。これを「修辞モデル」と呼びましょう。
ここで重要なのは、議論を聴衆に合わせることです。どれほど検討した議論を英語で展開しても、聞き手がフランス語を話す人であれば、まったく上手くいかないでしょう。
「戦争の言葉」が議論を歪める
これで3つのモデルが出そろいました。戦争としての議論、証明としての議論、パフォーマンスとしての議論です。そのうち最も一般的なのが、戦争としての議論モデルです。一般的に議論について語ったり、考えたりする時に頭に浮かぶのはこのモデルとなっているため、議論の進め方や実際の振舞いはここから生じます。
議論を語る時に、戦争にまつわる言葉が使われるのもこのためです。求められるのは「強い」議論や「パンチの利いた」議論、「目標を的確に捉えた」議論。「防御」しながら「戦略」を整える。求められるのは、相手を「粉砕する」議論です。これが支配的な議論の捉え方。議論と聞いて思い浮かぶのは、このような敵対モデルでしょう。
しかし、議論を戦争に喩えたモデルで捉えることは、議論の進め方をゆがめることにつながります。なので、そこでは内容より戦略が重視されるようになります。講義では論理や論証、議論に勝つための言い回しや誤りについて学びましょう。
そこでは自分と相手の対立が強調され、議論を敵味方に分けたものと見なします。予想される結果は華々しい勝利か、惨めで屈辱的な敗北のどちらかです。こうして議論はゆがめられ、交渉や検討、妥協や共同作業を妨げるのです。
本当に勝ったのは誰?
議論を始めるときに、「論戦するのではなく論議を尽くしてみよう。みんなで何が解決できるだろうか」と考えたことはありますか? 議論=戦争と捉えてしまうと、この考え方はできません。それで結局、議論がまとまらないのです。議論は行き詰まり、回り道をし、立ち往生します。それから教育者としては悲しいことに、議論を戦争として捉えると、「学び」を敗北と捉えることになるのです。
どういうことか説明しましょう。あなたと私が議論するとします。あなたは命題Pを信じていますが、私は信じていません。Pと考える理由を聞くと、あなたは説明してくれるでしょう。そして私が、その説明に反論を加えます。あなたは反論に答え、私はさらにたずねます。それはどういうことか? 他にどう適用できるか?
あなたは疑問に答え、最終的には反論も質問も、反対意見も出し尽くします。あなたは私の質問全てに満足のいく答えを出し、議論の終わりに私はこう言います。「君の言う通りPだ」と。これで私は新しい考えを手に入れます。しかもそれは単なる考えではなく、きちんと検討され、論争を経た考えです。それにより深く理解できるのです。
さて、議論に勝ったのは誰でしょう? 戦争に喩えてしまうと、こう言うしかありません。たとえ理解したのは私でも、勝ったのはあなただと。でも、私を説得することであなたは何を理解したでしょう? 確かに満足して自尊心は満たされ、その分野ではプロの地位を確保できるかもしれませんし、議論が上手だと言われるかもしれません。
でも、理解の面で勝ったのは誰でしょうか? 戦争に喩えた場合、理解したのは私であっても、勝ったのはあなたで、負けたのは私になります。何かおかしいですよね。私が変えたいのはこの状況です。どうしたら私達は、肯定的な効果を生む議論の仕方がわかるのでしょう?
負けても「良い議論だったね」と言ってみる
必要なのは、新しい議論の出口戦略です。ただし、新しい議論を始めなければ、新しい出口戦略は望めません。そこで、新しい議論の在り方を考える必要があるのです。
しかし、私にはその方法がわかりません。残念です。議論=戦争という比喩は怪物のようです。私たちの心に巣食い、それを殺す魔法の銃弾も、消し去る魔法の杖もありません。私には答えがないのです。
ただ、いくつか提案はできます。新しい議論の姿を考えるには、新たな参加者像を考える必要があります。試してみましょう。まずは、議論で参加者が果たす役割を考えましょう。対立的かつ弁証法的な議論では、賛成と反対の立場があり、修辞的議論には、聴衆がいて、証明としての議論には、推論する人がいます。
様々な役割がありますが、こんな想像はできるでしょうか? みなさんは議論をしていると同時に聴衆にもなり、自分の議論を見ているのです。自分が負けるところを見ても、議論が終わる時には「いい議論だった」と言うところを想像できますか?
きっとできるはずです。もし議論の敗者が勝者に向けて「いい議論だった」と言えるなら、聴衆と陪審員もそう言える議論なら、きっと素晴らしい議論になるでしょう。しかもそれに加えて、優れた議論をする全ての人が目指すべき、議論の参加者の姿を思い浮かべたことになるのです。
私は議論にたくさん負けてきました。しかし、敗北から何かを得られるような良い議論には、練習が必要なのです。幸い私には、自分から進んで練習の場を与えてくれる同僚がたくさんいます。
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