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【全文】お金で何でも買える世界とは?――マイケル・サンデル:これからの「お金」の話をしよう

野口直希

2014/08/09(最終更新日:2014/08/09)


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 私たちの社会は「市場社会」と呼ばれ、かつてないほど「お金」が力を持っています。今や、行列に並ぶ手間すらもお金で解決できるのです。そんなお金とのかかわり方を考え直すときが来たと、「白熱教室」で日本でも一世を風靡したマイケル・サンデル教授は話します。市場社会がこれから直面する課題とは、どんなものなのでしょうか?

 ここでは、マイケル・サンデルが市場経済が抱える課題について語ったTEDのプレゼンテーション動画を書き起こしていきます。

スピーカー

マイケル・サンデル / ハーバード大学教授 政治哲学者

見出し一覧

・何でもお金で買える世界
・市場経済から市場社会へ
・市場社会が生活必需品に及んだら?
・市場価値が生活規範を変えてしまう?
・市場はどこまで踏み込めばいい?
・これからのテーマは「共通性」

動画

お金で何でも買える世界

 みんなで共に考え直すべき問題があります。社会の中でのお金と市場の役割についてです。現在、お金で買えないものはほとんどありません。例えば、カリフォルニア州のサンタバーバラで懲役刑を言い渡されたとしてもです。もしもあなたが普通の監房を気に入らなければ、お金を出して監房をアップグレードできるのです。本当の話ですよ。いくら位だと思いますか?500ドル?高級ホテルじゃなくて刑務所ですよ!1泊で82ドルです。82ドル。

 テーマパークの人気のアトラクションで長い列に並びたくない人にも、お金は救いの手を差し伸べてくれます。多くのテーマパークでは、追加料金を払うと列の先頭に行けるのです。これはファスト・トラックとかVIPチケットと言います。

 この仕組みはテーマパークだけではありません。ワシントンでも議会の重要な公聴会では長い列ができることがあります。でも、並びたくない人もいます。徹夜になるかもしれないし、雨が降ることもありますからね。そんな人のために業者がいるのです。彼らは行列代行会社と呼ばれています。行列が嫌いな人は、これを利用してはどうでしょう。お金さえ払えば、その会社が仕事が欲しい人を雇って、どれだけ時間がかかろうと列に並ばせます。あなたは公聴会が始まる直前に、列の先頭にいるその人と入れ替わって会場の前列に陣取ればいいのです。

市場経済から市場社会へ

 市場の原理や考え方を取り入れる分野が広がっています。戦争を例にとりましょう。イラクやアフガニスタンでは、アメリカ陸軍の兵士よりも民間軍事会社の人の方が多く戦場に赴きました。戦争を私企業に外注するかどうかを公に議論したわけではありません。でも、それが実態でした。

 この30年間、私たちの社会は大きく変化しています。気付かないうちに市場経済が市場社会へと拡大してきたのです。両者にはどのような違いがあるのでしょうか?市場経済は生産活動を組織する重要で有効なツールです。一方、市場社会とはほぼすべてのものに値段が付く社会です。一種の生活様式で、市場的な考え方や価値が生活のあらゆる側面を支配するのが市場社会なのです。人間関係や家庭生活、健康、教育さらには政治や法律までも左右します。

市場社会が生活必需品に及んだら?

 なぜ私たちは市場社会に不安を感じてしまうのでしょうか?私は2つの理由があると思います。1つは不平等に関するものです。お金で買えるものが増えれば増えるほど、裕福かそうでないかが重要になります。

 お金で手に入るものがヨットや優雅なバカンス、BMWだけなら不平等もさほど大きな問題にはなりません。ところが、お金で手に入るものが生活に不可欠なものにまで及んだらどうでしょう。一定水準の健康保険や最高レベルの教育、政治的発言力や選挙での影響力などです。あらゆるものが自由市場化されると、不平等が私たちに与える痛みはこれまで以上に大きなものになります。これが不安な理由の1つ目です。

市場価値が生活規範を変えてしまう?

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 では、もう一つの不安の理由は何でしょうか。それは、社会的なものや慣習には市場価値が導入された途端に意味が変わってしまうものがあるということです。もしかしたら、本当に大切にするべき態度や規範が失われるかも知れません。

 こんな例をあげましょう。よく議論になる市場原理の利用のひとつに、インセンティブとしてのお金があります。みなさんはどう考えるでしょうか。多くの学校は、子供の学習意欲を高めようと努力しています。特に、恵まれない環境で育つ子供達を熱心に勉強させるのは大変です。

 そこで一部の経済学者は、市場原理による解決を提案しています。インセンティブとして、テストの得点が良かった子供や多く本を読んだ子供に報酬を与えるのです。
これは実際に試されています。アメリカの主要な都市でいくつかの実験を行いました。ニューヨーク、シカゴ、ワシントンD.C.では成績がAなら50ドル、Bなら35ドルを与えたのです。テキサス州ダラスのプログラムでは、8才の子供に本を1冊読む度に2ドルを与えました。

 お金を与えることで成績を上げようとすることには、賛成の人も反対の人もいます。みなさんはどう考えるでしょうか?自分が大都市の学校教育組織のトップで、そんな提案が持ち込まれたとします。相手はとある財団で資金も出してくれます。自分達が支出する必要はありません。

 この試行に賛成の人と反対の人はそれぞれどのくらいでしょう?みなさん、手を挙げてください。まず試す価値があると思う方は?(賛成派の聴衆が手を上げる)反対の方はどのくらいいますか?(反対派が手を上げる)なるほど。反対する人の方が多いですが、賛成の方もかなりいますね。

 では検討してみましょう。先に、こんな試行は認めないという方に聞きましょう。反対する理由は何ですか?誰から始めますか?どうぞ。

ハイケ・モーゼス氏(以下モーゼス):こんにちは。ハイケといいます。お金は、動機の本質を損なうのではないでしょうか。子供が本を読みたいと思うなら、インセンティブなんて与えるべきではないと思います。子供の行動を変えてしまいますから。

マイケル・サンデル氏(以下サンデル):インセンティブを与えてはいけないということですね。では動機の本質とは何ですか?またはどうあるべきでしょう?

モーゼス:動機の本質は学びであるべきです。

サンデル:「学び」とは?

モーゼス:世界を知るということです。それにお金を与えるのを止めたらどうなるでしょう?読書も止めてしまうのではないですか?

マイケル:なるほど。では、逆にこの施策を試すべきだと思う方は?

エリザベス・ロフタス氏(以下ロスタス):エリザベス・ロフタスです。試す価値と言うくらいですから、まず試してみていろいろ調べたらどうでしょう。

サンデル:調べるとは、どんなことをですか?

ロスタス:子供がまず何冊読んでいて、お金を与えるのを止めた後にどれくらい読み続けるかです。

サンデル:お金を止めた後もですね。どう思いますか?

ロスタス:気にさわったらすみません。率直に言って、いかにもアメリカ的なやり方だと思います(笑)(拍手)

サンデル:この議論で明らかになったのはこんな論点です。「お金というインセンティブのせいで、真の目的であったはずの進んで学ぶことや自分のための読書の大切さが失われるのではないか?」効果については意見が分かれるでしょう。しかし、疑問として残るのは、市場原理やインセンティブとしてのお金が間違ったメッセージを伝えるとしたら、教わった子供達がその後どうなるかです。

 先程の実験の結果をお話しましょう。成績に応じてお金を与える実験ではほとんどの場合、成績は向上しませんでした。1冊の読書に2ドルを与えた実験では、子供達はより多く本を読むようになりました。ただし、薄い本を選ぶようにもなりました(笑)

 でも本当に知りたいのは、この子供達が将来どうなるかです。読書は面倒な雑用で、報酬目当てでやるものだと考えるでしょうか?それとも、きっかけは間違ったものであっても結局は読書自体を好きになるのでしょうか?

市場はどこまで踏み込むべき?

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 こんなに短い議論でも、多くの経済学者が見過ごしがちなことが明らかになります。多くの経済学者はこう考えます。「市場は取り引きされるものに影響を与えないし、それを汚すこともない。市場で取り引きされるものの意味や価値は変化しないのだ」とね。対象が物的財貨の場合は確かにその通りでしょう。薄型テレビなら、私に売ろうがプレゼントしようが全く同じ商品です。どちらにしろ機能は変わりません。

 でも、対象が物的財貨ではない場合は違います。教育などの社会的慣習や、市民生活の場合です。そういった分野では、市場原理やお金によるインセンティブが市場に属さない大切な価値を傷つけ、排除するかも知れません。先ほどの学習に関する実験で、市場が商品の次元を越えてもの自体の性質や社会的慣習の意味を変えうることが分かりました。

 それがわかったら、次に問うべきはこうです。市場はどんな領域でなら大切な価値を傷つけてしまうのか。そして市場はどのような領域に属すべきか。

 ただしこの議論を進めるためには、私たちが苦手なあることをしなければなりません。それは、社会的慣習の価値と意味について公の場で共に検討することです。そこで検討するのは、人間関係や健康、教育や学習市民生活などです。物議をかもしやすい話題なので、みんなが避けて通りたいと思っているでしょう。実際に市場の論理が権威を持つようになったこの30年間、一方で公の議論は骨抜きにされていきました。より大きな道徳的意味は失われていったのです。私たちは対立を怖がってこれらの問題を避けています。でも、市場がものの性質を変えてしまうと分かった今、ものの価値という大きな問題について、みんなで議論しなければならないのです。

これからのテーマは「共通性」

 あらゆるものに値段を付けたときに深刻な害を被るのは、「共通性」です。つまり、みんなが一緒にいるという感覚です。生活のあらゆる側面が自由市場化したらどうなるでしょうか?裕福な人とそうでない人が、離れて生活するようになってしまうのです。
私たちは別々の場所で暮らし、働き、買い物をし、遊ぶのです。子供達は別々の学校に通います。これは民主主義にとって良くない状況です。誰にとっても満足できる生き方ではありません。貧乏な人だけでなく、お金を払って列の先頭に行くことができる人々にとってもです。

 なぜなら、民主主義は市民が共通の生活を共に送る必要があるからです。完全な平等は必要ありませんが、これは守られなければなりません。大切なことは様々な社会的背景を持つ様々な階層の人々が普段の暮らしの中で顔を合わせたり、知り合ったりすることです。そうなれば、私たちはお互いの違いを乗り越え、受け入れられるようになります。こうしてみんなに共通する善が維持できるのです。

 つまるところ、市場の問題の中心にあるのは経済についてではありません。本当に大切なのは、私たちがどう共に生きるかという問題です。私たちはすべてに値段が付く社会を望んでいるのでしょうか?それとも、お金では買えない道徳的な何かがあるのでしょうか。ありがとうございました。(拍手)

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