なんとか今年で10年目
年が明けて、すでにもう半月以上が経過してしまいましたが、新年1発目の聞き流シンパシーです。
会社を辞めてフリーランスのお絵描き屋さんとなり、今年で何とか10年目。ある意味節目の年です。そして、
こういう仕事をしてると必ず聞かれるのが

コレです。この10年幾度となく聞かれました。単刀直入に言うと、僕は
イラストレーターになろうと思ってなったわけではありません。他にやりたい仕事があったけどその職業につけなくて、何やかんやあって、結果としてイラストレーター兼コンテマン兼マンガ家兼コラムニスト(?)になってしまった男なのです。というわけで、まだ10年目のペーペーですが「
絵の仕事をしたいけど絵で食べられるか分からないし…そんなギャンブルな転職恐ろしくてできない」という方のために、何かのキッカケにもなるかもしれないので、絵の仕事をやることになった経緯をお話します。絵の学校を出てなくてもイラストレーターにはなれる
まず、さっきの質問とセットで必ず聞かれるのが
絵を描く人=美大出てる。分かります。その気持ちすんごく分かります。これまた厄介なことに、僕が出たのは
日本大学芸術学部映画学科撮影・録音コースというトコでして、
芸術学部とあるので絵を描きそうな響きはありますが、
受験科目にデッサンも無ければ、絵の勉強をするところでもありません。16mmフィルムをカメラに装填したり、照明を組んだり映画の撮影の勉強をするところです。

美術部だったかというと、
一応高校時代は美術部なのですが、
顧問の先生は隣の高校と掛け持ちで基本あっちの高校にいるという超放任美術部だったため、石膏デッサンも一回しかやったことありません。大会がある時だけ部室に行って描きたい絵を好き勝ってに描いてました。
つまり、誰かに絵の描き方を教わったことがないんです。ちなみに、高校の頃描いてた絵の一部がコレです。


サイズはB全です。RとBは立体を貼り付けています。
絵で食えるわけがないと思っていた
学校や部で絵の勉強はしてませんが、子供の頃からアンパンマン、ドラゴンボール、
名探偵コナンなんかを見様見真似で描いたりしてたので、多分それがベースです。絵を描くのは好きでしたが、
絵でメシを食おうなどとは1ミリも考えていませんでした。食えるわけがない、と思ってました。

もともとは映画監督になりたかった
そもそも、子供の頃から映画が大好きだったので
映画監督に憧れてました。日芸(日本大学芸術学部)の映画学科に入ったのもそのためです。大学中は将来は映像作って生活するんだと思っていたので、
絵は全然描いてませんでした。しかし、映画学科に入ったら入ったで…

と、ゴリゴリに就職活動をしてなんとかCM制作会社に入ったのですが、
ディレクターになる演出部というのはその年一人とるか取らないかの超絶狭き門でして、採用してもらったのは
CMの制作進行を担当する制作部という部で、テレビで言えばADさんのような仕事をするようになりました。しかし、
これが、全く向いてませんでした。 ダメ制作だった
本当にダメ制作で、当時の先輩たちにメチャクチャ迷惑かけました。マジで頭が上がりません。自分の下に、僕みたいな後輩が入ってきたらボロカスに言っていたと思います。と言うのも、いつかプランナーかディレクターになりたいという気持ちが根底にあったため、完成しても結局誰か別の人の名前(代理店のプランナーとか監督とか)が冠につく作品のために、家に帰れず、いつ休みが取れるかわからないまま続く制作業に全く身が入っていなかったのです。上司に企画を見せたり、企画・演出部への移動試験も受けたのですが、自主制作で何かしらの賞でも取らない限り異動は不可能という感触でした。そして、
映像の仕事をやってみたことで、大学で映画を作っていた時から薄々感づいていたことがどんどんハッキリしてきました。
極端な話、
絵は紙と鉛筆と消しゴムがあれば一人で作品を作れますが、映像はそうはいきません。撮影機材、録音機材、編集機材、キャスト、予算、スケジュール、ロケ地交渉、その他もろもろ…一つの作品を作るために揃えなければいけない要素がいくつもあります。子供の頃から一人で絵を描いて、一人で完成させていたため、この違いが物凄いストレスで、帰れない&休めないという状況も相まって、
椎間板ヘルニアによる重度の腰痛と座骨神経痛を発症し、約9か月。・椎間板ヘルニアによる
ジクジクとした精神面を削ってくる腰痛・坐骨神経痛による
電気が流れるようなピリピリチクチクとした肉体的な痛みジクジクとチクチクこれら
2種類のテイストの違う痛みを、仕事中だろうがプライベートだろうがそれこそ四六時中味わうという
地獄の苦しみに苛まれ、社会人2年目の12月のある朝、
激痛で歩くどころか立ち上がるさえできなくなり、手術とリハビリのため約3週間入院しました。

(ヘルニアの話はこちらにまとめてあります→
【マンガ】なんか変だな?と思ったら仕事より病院へ行こう)
病院のベッドの上で久しぶりに絵を描いた
このヘルニアがどれくらいツラかったかというと、入院したベッドの上で人生初めて、
入院に至るまでのヘルニアエッセイマンガを描き始めてしまうくらい辛かったです。大学入学以降全く描いていなかったので久しぶりの絵でした。退院後も終電で帰ってきて、夜中まで描いてブログにUPし、ちょっと寝てまた出勤みたいな生活を続けているうちに、

という気がしてきました。ブログを見た方からも,チョコチョコとお仕事をいただけるようになりました。そんなある日、あるCMディレクターさんにこれまで描いてた絵を見せたところ
「制作辞めた方が良いよ」と、言われました。
「ウラケン君さ、お弁当の発注個数考えてるのつまんないでしょ」と。
モロに確信を突かれました。 その頃から
「イラストレーターとか漫画家とか何か絵の仕事ができないだろうか…」と思い始め、
読んでいた雑誌が広告批評からイラストノートとかイラストレーションに変わり、社内の人へも絵が描けるということをアピールし、社内の仕事でちょっとした絵を描いたり塗ったりするようになりました。そして、飲みの席で先輩に言われたのが

会社を辞める勇気がなかった
コンテマンとは、
CMの企画をプレゼンする際にプランナーさんが考えた企画を絵に起こす仕事です。コンテに作品性はなく、企画を説明するためだけにある挿絵のようなもので、重要機密資料でもあり
プレゼンが終わったら即シュレダー行きです。僕はラフを元にコンテマンに発注したり、上がってきた絵をプレゼン資料にまとめる仕事もしていました。興味はありましたが、自分自身がんがんシュレダーにかけていた側だったので、
記憶にも形にも残らない絵を書くことに正直若干の抵抗がありました。

というか、
自分の画力とスピードでコンテマンをやれる自信がありませんでした。コンテマンは多い場合 、一晩で40カット以上のカットを描くこともザラです。そんな、
辞めたいけど生活できないんじゃないかという不安で辞める勇気がないフワフワした気持ちで「どうもウラケンは辞めるかもしれないぞ」という空気がオフィスに漂ったまま、数か月が過ぎたある日。また別の先輩に言われました。「ウラケンさ、辞めるんなら辞めてもらわないとコッチも仕事の振り方に困るんだけど」
ごもっともです。CM制作は、基本的にメイン制作が一つの作品を企画決定から完成・納品まで仕切ります。これを一本と考えるのですが、同期が次々を一本をこなしていくなか
覚悟ができていない僕はずっとアシスタント状態だったのです。これはハッキリ言って、お荷物以外何者でもしかありません。退職願を出したら有給消化中に仕事が来た
このままフラフラと居続けるのは迷惑になるだけなので、それからすぐ退職願を出しました。あの時、
ケツを蹴ってくれた先輩には今でも感謝しています。それが秋くらいの話だったのですが、代休と有給を全く消化していなかったので、総務の人と話し合って入社3年目の12月末日付けで辞めることになり、11月くらいからすぐ有給消化で休みになりました。
すると、休みに入ってすぐ予想外の電話がかかってきました。
会社のプロデューサーからでした。その場書きとは、
CMの企画の打ち合わせの現場に行って、その場でコンテを描くことです。スピードが要求されます。ビビりました。今でもそんなに上手くはありませんが、10年前は人間を描くのがもっと下手で、当然遅いです。その日のその場書きの仕事は何とかこなしましたが、あの時ほど
「大学中、絵をもっと練習しておけば良かった」と思ったことはありません。
夜中の2時に先輩が困っていた
しかし、「コンテマンになればマジで食えるんじゃないか。」正直、そういう計算も無かったわけではありません。
イラストで食えない分は、コンテマンで何とか食えるかもしれないと思ってました。CM制作の現場は、撮影や編集だけではなく打ち合わせの時間がかなり長いです。当時は夜10時くらいから始まることもざらでした。
制作部は絵が必要になりそうな時はコンテマンを待機させていますが、予想外なタイミングで絵が必要になり、夜中の2時に「ウラケン、誰か絵ぇ描ける人知らん?」と困った顔でオフィスをウロウロしている先輩もいました。
夜中の2時に、同期や先輩が気軽に電話をかけられる絵が描ける人間が必要とされている。よし、じゃあそれになろう。そう思いました。やめた時の絵を見るとゾッとする
そして、会社を辞めると
案の定夜中に電話がかかってきました。最近は、同期や先輩がプロデューサーになったせいか流石にそんな時間に電話はかかってきませんが、
やめた当時は本当に12時とか1時に電話がかかってきて絵を描いてました。 遅い時間でも、電話がかかれば即目が覚める体質というか、すぐ起きる自信がありました。それから10年、コンテのタッチはこんな感じになりました。。

(※これはサンプルです。)嬉しいことに、
「この企画はウラケンのタッチで」「このクライアントはウラケンのタッチじゃなきゃダメ」とか、代理店のクリエイティブディレクターから指名をいただくことも増えました。おかげさまでイラストの方も、CMやWeb、アプリなどでの仕事をいただけるようになり、収入も制作だった時に比べるとだいぶ変わりました。JAL SKY Wi-Fi

JAL ONE WORLD

楽天アプリ「毎日お宝採れジャー」(※パンダ以外)

studio CLIP 「SAIFU TOWN」

メガロボクス「
とんとんメガロボクス」
商店建築(連載カット)

イラストの仕事を増やしたいけど、ウラケンというイラストレーターの
存在を知ってもらわなきゃ永遠に発注が来ることはないし、基本的に人の目に触れないコンテだけだと、どうにも自己承認欲求が満たされません。そこで、数年前からツイッター(
@ulaken)や
ブログにイラストをUPしだしたら、
イラスト付きの映画紹介記事(
四コマ映画、FILMAGA)や、この
聞き流シンパシーのようなコラムの連載もいただけるようにもなりました。
FILMAGA「マーベル映画ざっくり世界観MAP」
FILMAGA「スター・ウォーズ旧三部作予習復習おさらいノート」
四コマ映画「ギフテッド」
四コマ映画「スリー・ビルボード」
ウラケンの聞き流シンパシー「スタバもいいけど、オチャバがほしい」

しかし、
やめた当時のファイルを開くと今でもゾッとします。「よくもまぁこんなレベルで会社辞めたよ」と戦慄します。根拠なき自信とは怖いものです。
向いていたのはやりたい仕事ではなく、性に合ってる仕事だった
結局、
元々やりたいと思っていた仕事ではなく、性に合ってて人から求められてる仕事をやってみたらそこそこ向いてたみたいです。
僕の場合は前の職場に絵を必要とされてる方が多く、CMの現場で何が必要とされているか知っていたので、物凄く運が良かったとも言えます。うちの長女を構成している物質の半分は、前の会社からの仕事でもらったギャラでできていると言っても過言ではありません。

思考が変わったと気づいたのは、元々制作部だった同期が演出部に移動になったと聞いても何とも思わなかった時です。会社の体制が変わってハードルがかなり下がったと聞きました。
映像にこだわっていた時だったらメチャクチャ嫉妬してたと思います。ツイッターとかには、目上や先輩の助言はアテにならないという意見が目立ちますし、実際そういうことも多いと思いますが、僕は
先輩に言われたことを真に受け、実際その通りになったので先輩の方々には感謝しかありません。転職のキッカケは人によって様々です。もし何か
憧れの仕事や、やりたい仕事があるのにそれにつけず悶々としている場合、一旦立ち止まってそれが本当に「性に合っている」のか考えてみるのも有りなんじゃないでしょうか。長くなりました。ここまで読んでくださった方々、ありがとうございました。また次の10年を頑張ります。
おそらく、来月には一つ大きなお知らせができそうです。平成最後の年、2019年が皆さまにとって素晴らしい年になりますように。U-NOTEをフォローしておすすめ記事を購読しよう