1. 私は“SNS憑かれ”だった?1週間SNS断ちをして考えたこと

私は“SNS憑かれ”だった?1週間SNS断ちをして考えたこと

 Twitter、Facebookなど、いつでもどこでもコミュニケーションできるSNSは、今や枚挙にいとまがない。電話やメールよりも秒速で相手とコミュニケートできるのだから便利になったものだ。
 
 しかし、ボールを投げるとすぐに返ってくるようなやりとりに心地よさを感じる一方で、「SNS疲れ」にもしばしば苛まれる。
 
 SNS上での人間関係のストレスや、他者との比較によって自信を失っている人たちを見ていると、私はむしろ“SNS疲れ”というよりは、“SNS憑かれ”のように思ってしまう。
 
 なんだかもう、取り憑かれているような気がするのだ。SNSという姿なき呪縛に。

SNSを通じて人間関係はできたが……

 私のSNSデビューはmixi。当時はまだ18歳未満の利用が禁止されていたころであり、16歳の私はこっそりと利用していた。

 同年齢の友人の多くもmixiユーザーだったため、もはや利用規約を破りながら利用しているというスリルすらなく、mixiを通して趣味の仲間ができた。
 
 それが2010年になるとmixiからTwitterに流入するユーザーが増え、プライベートや趣味を問わず、多くの人と交流するようになった。そして大学生になった現在も、普段は主にTwitterを利用している(Facebookのアカウントはあるが滅多に見ない。Instagramは写真を投稿するだけ)。
 
 Twitter歴は約8年になる。途中で何度か趣味が変わることもあったが、Twitterを通して新たな知り合いもたくさん増えた。私は多くの場所に居場所があると思っていた。

 しかし、本当は居場所なんてどこにもない、とあるときふと気づいてしまった。所詮私にとっての心安らげる居場所はバーチャルなSNSにしかなくて、そのなかの人間関係に満足していただけなのだと。

 SNSとは関係がない知人のパーティや飲み会に参加していると、所在なさを感じざるをえなかった。
 
 今までの私のなかの「当たり前」が一瞬にして崩壊した。私を満たしてくれたのは所詮バーチャルなものだけであって、リアルの面と向かった人間関係との間でギャップが生まれていたのだ。

 そのねじれに違和感を抱き、私はSNSからしばらく離れることにした。

1週間のSNS断ちを実行することに

 SNS断ちを決意した私は、今までスマホの容量がどんなに重くなっても削除しなかったSNSのアプリを、まずはアンインストールした。それでなんとか1週間耐えてみようと思った。パソコンからログインできる罠もあったが、歯を食いしばるように我慢した。
 
 SNS禁止1日目は、なにか物足りなさを感じてしまって検索アプリでいろいろなWebサイトをSNS代わりに就寝前に閲覧していた。2日目、3日目も同じような具合だった。いつも何かが気になってしまい、Webサイトを訪問してしまう。
 
 しかし、日に日にWebサイトを閲覧する時間は減っていき、SNSを禁止して5日目くらいになると、Webサイトを開くことじたいが面倒臭くなり、外出中はスマホを手にしていても機内モードに設定するようになった。

その言葉には、本当に重みがあるのか

 そして、SNS断ちをしてから1週間が経過。おそるおそるTwitterをのぞいてみたが、タイムラインには、以前と変わらない世界が広がっていた。
 
 SNSを断ってみて思ったのは、タイムラインに流れてくる言葉はだいたい似通っているということ。どんな有名人がどんな言葉を放ったとしても、どこの馬の骨かわからない人間が放った言葉も、その重みはさほど変わらない。
 
 「たくさんリツイートされていてすごい」とか、「フォロワーが多い」だとか、なんてばかばかしいのだろう。相手とどれだけ仲が良くても、所詮は赤の他人にすぎない。他人のプライベートや思考に一日中張り付くよりももっと大切なことは山ほどある。

話し言葉が可視化されることの意味

 SNSが多くの人に利用されるようになって、確かに便利になったと思う。SNSを通して名を轟かせた人だっている。だから頭ごなしに「SNS、ダメ、ゼッタイ」なんて言えないけど、言葉が可視化されるのは恐ろしい。
 
 例えば、Twitterのリプライなんかその最たる例で、話し言葉でリプライしている人もいれば、よく考えながら書き言葉のようなリプライをしている人もいる。SNSは話し言葉と書き言葉が混ざっている世界だ。先日私はふとそう思った。
 
 また、「どんな色が好き?」と突然誰かに訊かれたら、すぐに好きな色を答えられるだろうか。それがもしアンケート用紙での「どんな色が好き?」だったら、考えた末に好きな色を答えるだろう。
 
 しかし、明日になったら好きな色は変わっているかもしれないのだから、実際のところ本当に自分が好きな色なんて、自分自身もわかっていないのではないかと思う。

 SNSは話し言葉と書き言葉が混ざった世界だからこそ、話し言葉では許されていた言葉が可視化されて残り、あとで読み返したときに罪悪感に駆られてしまうことがある。以前は何も感じなかった相手の反応を断罪してしまうこともある。
 
 きっと面と向かって話したり、手紙をしたためたりすれば、違和感は軽減するのだろうが、バーチャルな空間では言葉が、そのまま記録として残ってしまう。しかも、違和感を引きずりつつ、そのうえ「やめて」とひと言添えることもなく、自分のイヤな相手をボタンひとつで断ち切るなんて、もっと恐ろしいんじゃないだろうか……。

SNSはまじめに使うよりも、遊び場のように使いたい

 「もうこんなのこりごりだ!」と思った私はこれからも潔くSNSを断ちたいと思ったが、今もスマホにはSNSのアプリがいくつか入ったままになっている。だが、使い方は今までとは違う。
 
 以前は、物議を醸すツイートに対して、あれやこれやと持論を投じがちだったが、そんな主張も端からみればどれも同じようなものだ。「自分なんて所詮なんでもないんだ」と気づいた今では、もう「お腹すいた」とか「眠い」とか、くだらないことしか発したくない。
 
 私のなかでSNSはもはや持論を発する場でも人とつながる場でもなく、暇つぶし感覚のくだらない遊びのようなものになっている。そのようなスタンスでSNSを使うようになってから、気持ちが物凄くラクになった。

もしかしたら「選ばされているだけ」だったのかも

 SNS断ちを1週間行って、多くのことを考えさせられた。SNSは確かにさまざまな選択肢を与えてくれるだろう。しかし、それは本当に自分の意思で選び取ったものなのだろうか。もしかしたら、「選べるようになった」のではなく、「選ばされているだけ」なのかもしれない。
 
 どんな問いの答えもインターネットには書かれていない。生きている間にぶち当たる壁なんてインターネットだけで解決できるものではないはずだ。目の前にある現実とひたすら対峙しながら自分で答えを編み出すしかない。

 ……という私の考えるSNSとの付き合い方をインターネットに載せることは正直言って憚られるが、このバカバカしいどこの馬の骨かわからない人間に最後までお付き合いいただいた方々に感謝したい。

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