1. タイで最も愛された王、プミポン国王に学ぶ「行動力で心を掴む」リーダー術!

タイで最も愛された王、プミポン国王に学ぶ「行動力で心を掴む」リーダー術!

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 今年10月、タイ王国の象徴として70年間在位したプミポン国王が崩御された。「お父さん」という名で親しんでいた王の崩御を受けた国民は悲しみに暮れ、街中は黒い服の人で溢れた。

 企業のホームページやテレビニュースでは色が控えられる等、タイに会社を構える日本企業を含めた自粛ムードはニュースで伝えられ、世界中の人々が国民の王に対する深い敬愛を感じたことだろう。崩御から二ヶ月、街は以前のような活気を取り戻しつつあるものの、公務員には1年間の黒服が申し付けられ一般の人も肩に黒いリボンを付けている。 

 なぜ、プミポン国王はそこまで民衆に愛されるのだろう。君主制だからだろうか、不敬罪を恐れてだろうか。

 今回は、日本人にも親しみ深い微笑みの国タイで誰より愛された王から、愛されるリーダーになる術を学びたい。

プミポン国王を愛する国民たちの様子

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 タイの人々はとにかく国王と王室を敬愛することで有名だ。そのため、プミポン国王が崩御した時は多くの国民が悲しみに暮れ国は黒で溢れた。現代日本には馴染みのない行動かもしれないが、では具体的にどのように敬愛を表現しているのか。

国王の写真を傍に置く

 タイの人々がプミポン国王を敬愛する象徴としてまず、いたるところに王の写真が飾られていることが挙げられる。プミポン国王1人だけの写真やシリキット王妃と並んだもの、若い頃のものから現在のものまで様々な種類の写真が街中や会社だけでなく家の中にまで飾られている。タイに産まれ育った人々は、王の写真を傍にすることで寄り添ってくださっていると感じ安心するという。
 
 これがタイ国内のみであれば不敬罪を恐れてだとも考えられるが、王の写真は日本のタイ料理屋や日本で暮らすタイの方の家でも見ることができるのだ。

朝と夕に国家が流れる

 タイでは朝8時と夕6時に国家が流れる。国家を聞くと人々は足を止めなくてはならず止めない場合は不敬罪に問われるのだが、彼らは微笑みながら直立不動に。他国の人間が見るとやはり不敬罪を恐れての行動だと考えてしまうが、現地に住む日本人のコメントを見ると意外な感覚が述べられていた。

 国家を聞き足を止める彼らの様子を見て、他国の人間は「神聖」だと感じるそうだ。勿論、感覚は人それぞれである。しかし、神聖さを感じる人がいるということは彼らの大多数は無理矢理に足を止めさせられている訳では無さそうだ。

 また、映画館で映画が始まる前にも国家が流れ鑑賞者は起立する。プミポン国王は勿論だが、王室と国への敬愛が深いことが伺えるだろう。

奇跡の名犬物語

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 プミポン国王と愛犬の物語がベストセラーになったのも有名だ。国王は「海外から高い犬を連れてこなくても国内にこんなに可愛い犬がいる」と施設からもらってきた犬を可愛がり、自ら一冊の本を書いた。

 後に映画化もされた「奇跡の名犬物語」の売り上げは王室が後援する野良犬の保護団体「フアヒン・ドッグ・シェルター財団」に寄附される。タイでは野良犬問題が非常に深刻であるために、国王が施設を視察しただけではなく愛犬として引き取り、さらに自ら筆をとるという行動が国民の心に沁みたのだろう。

 資産家の多くは海外から血統書付きの犬を買うのに、国内で保護された野良犬を愛するという姿勢は王の温厚で慈悲深い人柄を読み取ることができる。

王の誕生日には街が黄色に染まる

 タイには生まれた日ごとに色があり、月曜日生まれのプミポン国王は誕生カラーが黄色である。国王の誕生日の12月15日には黄色を纏った国民で街は溢れ、誕生カラーで王の生誕を祝った。

 プミポン国王の即位60周年を迎えた2006年6月には、国民は行事前から黄色の腕輪や衣服を身に着け来る日を心待ちにした。

 中でも人気があった、黄色のシャツの値段は高騰。政府は黄色のシャツ1枚の値段を400バーツ(=日本円にして約1,300円)以上にすることを禁止し、違反したものには罰則を与えた。

プミポン国王の功績

 では、なぜタイの国民は王をそこまで敬愛しているのか。理由として、タイの情勢と歴史があげられる。タイは情勢が安定した国とはいえず、過去に何度も不安定な時期を経ている。にも関わらず内紛が起きず他国に侵略もされないのは、一重にタイ政府と王の巧みな政治手腕によるものだろう。
 
 西側にあるミャンマーがイギリスに占領され東側にあるベトナムがフランスに占領された際も、タイは自国を「不可侵地帯」と称し独立に成功した。第二次世界大戦時には敗戦国側と同盟を結びB29による空襲も受けているが、敗戦国リストに国名がない。

 タイの政治手腕は国外でも賛辞を受けるほどだが、プミポン国王は何をしたのだろうか。いくつか例を挙げたい。

1:ラーマ8世の崩御、疑惑の中の即位

 プミポン国王(ラーマ9世)の父親であるソンクラーナカリンは先代国王ではない。チュラーロンコーン王の69番目の子共であり、教育に熱心で、かつタイに近代的医療を導入した「医学の父」と呼ばれる人物だ。プミポン国王自身もアメリカで生まれ、幼少期はスイスで過ごした。

 第二次世界大戦が終結した1945年、スイスのローザンヌ大学を休学しタイに帰国すると翌年にラーマ8世が崩御。そのわずか12時間後に即位したことで、当時は暗殺等の噂も囁かれプミポン王の即位に不安を感じる国民もいた。

2:はじまりの「血の日曜日事件」

 1973年10月14日、「血の日曜日事件/学生革命が」起きた。学生らが民主化を訴え決起したことを発端とするこの事件は13日に一般市民を含め50万人のデモ隊を構成。民主化を訴える集団に肯定的だった王は、デモを指揮したNSTCの代表と謁見し逮捕していた学生13名の無条件釈放と憲法発布を確約。これにてデモは治まったかのように思えたが、デモ隊の中で分裂が起きていた。

 武闘派のセークサン・プラサートクン率いるデモ隊「黄色い虎」は集会の続行を求め王宮へとデモを進行。ラチャダムヌーン通りで武装警察と衝突し、77名の死者と857名の負傷者を出したのだ。

 危険だと止められる中、上空からデモを視察していた王は当時の首相であったタノーム氏と副首相であったプラバート氏及びその親族の国外退去を知り、次の首相にタマサート大学の学長を指名。民主化への道が開けたかのように見えたが、当時のタイには民主的システムをスムーズに構築できなかった。

 1975年に近隣のラオス・ベトナム・カンボジアが共産主義になったことでタイは共産主義への恐怖に震え情勢が混乱。1976年には元首相タノームの帰国にタマサート大学の学生が抗議運動をしたことから、銃撃戦や拷問が行われるまでに至った。

 1973年に軍政を脱却したものの1976年には再び軍政が敷かれたこと、一連の流れを経てタイでは共産主義への嫌悪感が高まり、タイにおけるマッカーシズムのような動きによる赤狩りも行われ、その後、ベトナムからの侵略等を含みタイ国内は不安定な情勢となり首相や副首相が変わったが国王だけは姿勢を崩さず国民に寄り添ったという。

 これは2013年のタクシン派と反タクシン派デモの際にもいえることであり、王はどちらに属するかではなく常に民と共にあると述べた。

3:王の権威を見せた「暗黒の5月事件」

 1991年、タイ国内での軍部の権威が下がっていることに不満を持った軍部がクーデターを起こし、翌年に軍人であるスチンダーが首相となった。民主化を望む民衆が抗議デモを行うと軍はこれを武力で鎮圧。300名以上の死者を出した。

 上でも述べたが、タイでは共産主義と軍部主義と民主主義での対立が何度も起こっている。今回も1973年からの悲劇が繰り返されるかと国民は嘆いていたのだが、王のとった行動は意外なものだった。

 どちらにも属さず国民と共にあると述べていたプミポン国王は、軍部のスチンダー首相と民主化運動の指導者であるシャムロン・シ―ムアンを王宮に呼び出し「いい加減にしなさい」と一喝した。これでは国民が悲しみだけだという王の言葉を受け、終息する気配の無かったデモや混乱は一夜にして終結。

 スチンダー首相は辞任し前首相のアナンが復帰。前回以上の犠牲が出るかと思われていたクーデターをこれ以上の犠牲を出さず、言論で治めたプミポン国王に民衆は深く敬意を示した。研究者の中にはこの時からタイの国民の心の中にプミポン王を特に敬愛する感情が生まれたという人もいる。

 繰り返しかけた悲劇を王の言葉一つが止めたという事実は、タイ国内に留まらず海外にまで権威を伝えた。

4:悪党に惑わされず「カンボジア」との衝突を阻止 

 2003年、タイ王国の女優スワナン・コンギンがテレビ番組で「タイのものだったアンコールワットを奪ったカンボジアは嫌い」と発言したとの報道がされた。これの事実関係には疑問があるのだが、報道を受けたカンボジアは激怒。3,000人がタイ大使館を取り囲み、国旗を焼くなどの暴動が起こった。

 大使館を囲まれ国旗を焼かれるまではタイ側は静かであったが、数々の事件を経てプミポン国王への敬愛を深く持っていた彼らは「カンボジア人がプミポン国王の肖像画を踏みつけている」写真を見て激怒。今度はバンコクにあるカンボジア大使館に人が集まり国旗を焼くなどの暴動を起こした。

 上記から分かるように、タイ国民はプミポン国王を歴代の王族の中で最も敬愛している。肖像画を踏まれるという屈辱に耐えかねての行動であったが、これを見た王は「悪党の言葉に惑わされてはならない」と一言。この言葉によりタイ側は静まった。

ロイヤルプロジェクト

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 プミポン国王は暴動やクーデターを治めただけではない。山岳地帯に住む人々が焼畑農業とケシ栽培で生計を立てる様子を見て、これを助けるために農村支援プロジェクトをはじめた。プミポン国王の母親で、王不在の間は摂政として国を治めたシーナカリン王妃も北部山岳民族から親しみを込め「ソムデット・ヤー(祖母陛下)」と呼ばれていいた。

ロイヤルプロジェクトの内容

  • 農業用水/生活用水のための水プロジェクト
  • 農民の生活安定のための農村プロジェクト
  • 医療設備の向上のための医療プロジェクト
  • 平等に学ぶための教育プロジェクト
 大きく分けて4つに分けられるロイヤルプロジェクトは王をはじめとする王家の資産を元に、国民の生活向上を目指し推進されている。農村部への電力供給や痩せた土地を肥やすことに始まり、都市に住む人や観光客が買い物をする時に使うショップやカフェまで展開している。

 カフェやショップには経営している王族の名前がつけられることは勿論、王は公務の合間に農村部へ顔を出しては自ら指示を出していた。教育には特に力を注ぎ、自らの資金で学校を建設しナワクール奨学金を創設した。

 農村部を開発するだけではなく、都市部のタイの国民の生活にも馴染ませプロジェクトで実った作物や作った衣類等の消費を自然と促すこの方法はタイの国民に絶大な支持を受けた。

タイの大衆魚プラーニンにまつわる話

 昭和39年、日本から昭和天皇の名代として天皇陛下が皇后さまと共にタイに訪問すると、国王は自ら車を運転し山岳部を案内した。食糧難に悩んでいたプミポン国王は魚類の博士号を持っている天皇陛下に繁殖力が強くタイの水に合う魚を相談し、これを受けた天皇陛下は挙げられていた魚の代わりに「ティラピア」という淡水魚を提案した。

 翌年には東宮御所で育てていたティラピアを贈呈し、ありがたく受け取ったプミポン国王はこれをチトラダー王宮の池で養殖し今ではタイの大衆魚となっている。天皇陛下の名前の明仁から「ニン」を取り、タイで魚を現す「プラー」と合わせ「プラーニン」と名付けられた。

 タイの国民の70%が知っているというこのエピソードは日本との強い絆を表すだけでなく、他国の象徴を前にしている時も国民のことを考えるプミポン王の様子もみることができる。

 
 プミポン国王が即位した当初、国民は彼に対し今ほどの敬愛を抱いてはおらずむしろマイナスのイメージであった。しかし、何度も訪れる不安定な時に常に国民の傍にいる王の様子や国民の生活を良くしようと努力する様子を目にした国民は、プミポン王を歴代王族の誰よりも深く愛する様になったのだ。
 
 プミポン王は常に国民のことを考えていた。忍耐強く慎重に流れをみては争いを起こさず、言論で治めようとしたのだ。

 王の言葉の力によりタイはカンボジアと戦争をすることも武力での内乱が繰り返されることも無かった。派閥が争っても災害が起きても、自らの考えを持ちぶれない王の落ち着いた様子が国民に安心感を与え「何があっても最終的には王がどうにかしてくれる」というタイ独特の風潮を作り上げる。

 日本でタイ米が廃棄されていることを知り怒る国民を「許しましょう」と諭したことからも、懐深く思慮深い人柄が分かる。タイの人は国王の行った政策を含め、その人柄に惹かれているのではないだろうか。

 愛されるリーダーというのは、誰よりも人のことを愛し衝動に身を任せず自らの考えの元に行動する人だとプミポン王の生き方から学ぶことができる。

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