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元サッカー日本代表・三浦淳寛が語る「挫折に負けない“健康”な心の作り方」

U-NOTE編集部

2016/12/05(最終更新日:2016/12/05)

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 U-NOTEでは現在、同社とのコラボ企画として、著名人が「ヘルス&ウェルネス」を考えるインタビューを連載している。第2回は、元サッカー日本代表・三浦淳寛さんが登場。輝かしい活躍を見せながらも、所属クラブの消滅、W杯のメンバー落選など数々の挫折を経験してきた三浦さんが、「逆境に打ち勝つ心の強さ」を語る。

野球少年がサッカーに転身  上達のカギは“考える力”

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——三浦さんは、小学3年生からサッカーを始めたそうですね。そのきっかけは?

三浦:僕が生まれたのは、西武ライオンズで有名な埼玉県所沢市。そのため、子供の頃からずっと野球選手を目指していました。その後、父の仕事の都合で大分県に引っ越すことに。当初は野球を続けていましたが、サッカー部の監督から「全国少年サッカー大会で優勝できるチームを作りたい」と勧誘されたんです。毎晩自宅までスカウトしに来るので、居留守を使ったこともありました(笑)。でも、小3の子供に10日間近く会いに来てくれるので、両親も「やってみたら?」と言い出して。「つまらなかったら、また野球に戻ってくればいい」ぐらいの気持ちでした。

——でも、そこからサッカーに夢中になっていくんですよね。

三浦:正直に言えば、僕にはサッカーのセンスや才能はそれほどありません。でも、“考える力”はあったんですよね。小3の頃から「どうすればみんなに追いつけるか、何をすれば追い越せるのか」と考えていました。そこで気づいたのが、キックの重要性です。キックだけはとにかく誰にも負けないようになろうと思い、ひたすら練習しました。サッカー部の練習が終わって、自宅でご飯を食べたらすぐに外に出て。駐車場の壁に向かって、ただただボールを蹴っていました。壁には一面に黒いコケがついていたのですが、ボールが当たるとその部分だけ剥げて白くなるんです。それがまた面白くて、返ってきたボールをコントロールして、また蹴って。小学校を卒業する頃には、普段めったに褒めてくれない親から「よくぞ壁をきれいにしてくれた!」と褒められました。(笑)

——その後も、サッカーの名門校・国見高校でキャプテンとして活躍されました。プロを意識したのは、いつ頃でしょう。

三浦:Jリーグが発足したのが1993年。ちょうど僕が高校を卒業するタイミングでした。プロに行くか大学に進学するか、僕が信頼する小嶺(忠敏)監督と相談したところ、監督は「お前なら4年間大学に行った後でもプロになれる」と言ってくださって。そこで青山学院大学に進学しました。でも、結局大学には1年しか行きませんでした。大学時代に「ドーハの悲劇」をテレビで見たり、Jリーグの開幕戦を見たりして、「Jリーグでプレイしたい」という気持ちが強くなったんです。しかも、大学にはプロ志望の選手が少なく、練習も物足りなくて。そこで、プロに行くことを決断しました。不安よりも、「自分ならできる」という自信のほうが大きかったです。

二軍生活、所属クラブの消滅…挫折を乗り越えるための力とは

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——しかし、横浜フリューゲルス入団後は苦労もあったようです。

三浦:入団してから1年間、まったく試合に出られませんでした。あの時は、初めてに近い挫折を味わいましたね。翌年も試合に出られなかったら、辞める覚悟でした。そこでフロントに「シーズンオフの3ヵ月間、イタリアのセリアBのコモというチームに留学させてほしい」と直訴。当時のフリューゲルスはイタリアの「ゾーンプレス」という戦術を取り入れていたので、本場イタリアで学ぼうと思ったんです。

——イタリアでの留学生活はいかがでしたか?

三浦:最初は、練習でも全然パスが回ってこないんですよ。日本人は弱いと思われているから、パスを回してくれない。味方にぶつかりに行って、ボールを取るしかないんです。僕はもともとおとなしくて真面目な性格。それが、留学でガラッと変わりました。

——留学先で転機になった出来事はありますか?

三浦:留学当初は、なかなかコミュニケーションが取れないでいました。練習ではボールが回ってこないし、ホームシックにもなるしで、もうどうにもならなくて。でも、このままではいけないと思い、成田空港で買ったガイドブックを手にお店に入り、他の人たちの会話を聞いて簡単なイタリア語を覚えたんです。それを真似してコモの選手に話しかけたら、「なんだお前、イタリア語を話せるのか?」となりました。そこからは打ち解け、ボールも回ってくるように。1ヵ月ほど経った頃には練習試合でも活躍できるようになり、現地の新聞でも「日本からロベルト・バッジオが来た」なんて書いてもらって嬉しくなりました。最終的にはコモから「チームに残ってくれ」と言われましたが、フリューゲルスも「今年から試合に出場させる」と言われ、帰国しました。2年目からは、ずっとレギュラーとして定着できましたね。

——同じタイミングで、攻撃的MFから左サイドへポジションも変わりました。

三浦:最初は嫌でしたね。できればMFで評価されたかったので。でも、左サイドを任されるなら、このポジションで日本一になってやろうと気持ちを切り替えました。

——先ほどからお話をうかがっていると、気持ちの切り替えが早いですよね。秘訣はあるのでしょうか。

三浦:確かに、気持ちの切り替えは得意かもしれません。思い返せば、僕のサッカー人生はつらいことのほうが多かったように思います。でも、常に逆境は“切り替える力”と“考える力”で乗り越えてきました。1996年のアトランタオリンピックの時も、新聞には「三浦確定」と書かれ、すっかり出場できるものだと思っていました。それなのに、結局僕は落選してしまった。残念でしたし、記者の方々も集まっていましたから、恥ずかしくて……。でも、何日か経ったら気持ちを切り替えられました。「オリンピック出場選手よりも先にワールドカップに出てやる。日本代表になってやる」と新たな目標を見つけ、そこに向けて頑張ろうと思ったからです。しかも、4年後のオリンピックではオーバーエイジ枠ができたため、シドニーオリンピックには出場できました。大切なのは、いつも「できること」と「できないこと」を考えること。オリンピックに落選したら、23歳という年齢制限があるのでもう出場はできませんよね? そうなったら「じゃ、できることは何か」と考えるんです。できないことはスパッと忘れ、“切り替えて”、できることに向けて努力するのが大切だと思っています。

——数々の挫折も、そうやって乗り越えてこられたのでしょうか。

三浦:ワールドカップも、チャンスは2回ありましたが結局出ていないんです。それも挫折と言えば挫折です。2002年の日韓ワールドカップでは、怪我が治らず出場できませんでした。2006年のドイツワールドカップの時には、所属していたヴィッセル神戸がJ2に降格してしまいました。当時のジーコ監督は「代表選手はJ1から選ぶ」と言っていたので、J2に降格した時点で僕が選ばれる可能性はありません。フロントは「代表選手は、アツの夢だろう? J1のチームに移籍していいよ」と言ってくれましたが、それもできなくて。当時キャプテンだった僕にはJ2降格の責任もありますし、自分だけJ1に移籍するなんてできません。それにヴィッセル神戸に入団する際、阪神淡路大震災のことを勉強し、神戸の皆さんがどのように街を復興させてきたのか映像で観ていたんです。やっぱり神戸に残りたいと思い、最終的に残留を決めました。今でも、後悔はしていません。

——三浦さんのおっしゃる“切り替える力”、“考える力”は、ビジネスマンにも応用できそうですね。

三浦:何かあった時に「待てよ」と考える。そうすることで、窮地を乗り越えるヒントが見つかるかもしれません。あとは、チーム力も大切ですよね。僕が横浜フリューゲルスに所属していた時、チームが消滅するという事態に直面したんです。もう、地獄のような日々です。チームには、移籍が決まっている人もいれば、来年からサッカーできなくなりそう人もいる。みんなでチーム存続に向けて何ができるか考え、署名活動をしたこともありました。でも、なにか困難が起きた時のほうが一体感が生まれやすく、新たな目標に向けて頑張れるんですよね。ビジネスにおいても、本音で話し合うことが大切ですし、意見をまとめるリーダーも必要だと思います。

——三浦さんには、無回転フリーキックという誰にも負けない武器がありました。プロスポーツ選手ではなくビジネスマンも、やはり武器・得意分野を持つことが大切だと思いますか?

三浦:そうですね。サッカー選手の場合、ヘディングだけは誰にも負けない、フリーキックがうまい、インサイドパスの判断が早いなど、それぞれの強みを活かしてこそ活躍できます。ビジネスマンでも同じ。自己分析をして自分の特徴や強みがわかると、ビジネスに貢献できるだけでなく、きっと仕事も楽しくなるはず。例えば他人と話すことが苦手でも、気を利かせるのは得意だという人もいますよね。自分の適性がわかれば、輝ける場所がきっと見つかると思います。

「自信と過信は紙一重」慢心しない心の作り方

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——現在は選手を引退し、解説者、指導者として活躍されています。引退を決めた時は、どのように気持ちを切り替えたのでしょう。

三浦:僕の場合、「指導者になりたい」という目標があったので、辞める段階ですでに気持ちの切り替えができていました。引退してからは、華やかな舞台で活躍している人を見ても全くうらやましいと思いません。毎日ずっと、どうやったら海外で活躍している監督のようになれるのか、どうすれば指導力がさらに伸びるのかと考えています。今は子供を対象にサッカーを教えていますが、子供たちにわかりやすく伝え、長所を上手に引き出すのは、将来監督になった時にも必ずプラスになると思っています。

——選手時代から現在に至るまでに、影響を受けた方はいますか? 座右の銘があれば教えてください。

三浦:国見高校時代、監督をされていた小嶺先生の言葉は今も心に残っています。全国大会で優勝して帰ってきたその日に、「自信と過信は紙一重」と言われ、驕ってはいけないと10km走らされました。他にも、「三浦はいい選手だねと言われるのは、確かにいいことだ。でも、人格者だねと言われることもすごく大切」「現役を引退してからのほうが人生は長い。謙虚な人間でありなさい」「信頼を築くのは大変だけど、失うのは早い。どんな時にも変わらない人間になりなさい」など、大切なことをたくさん教えてくださいました。高校時代にはあまり理解できませんでしたが、今になるとすごく良くわかるんですよね。僕だって、いまだに過信することはあります。でも、自分自身で自分を常にチェックし、自己分析するよう心掛けています。そうすることで、過信や慢心を防ぐことができますから。

——現在は指導者として第二のサッカー人生を送っていますが、移籍や引退の際には生活面、特に金銭面での不安はありませんでしたか?

三浦:確かに、プロとして生活できるかどうかはいちばん大事な問題ですよね。僕自身は九州育ちということもあって、「男は妻と子供を養うべき」という考え方。好きなことを仕事にする前に、きちんと家族や自分が生活をしていけるだけの稼ぎがあること、金銭面での不安がなく生活できることは、常に意識していました。特に僕自身、プロになった当初は試合に出られず苦労しましたし。でも、考え方は人それぞれ。多少苦しくてもずっとサッカーを続けたい人、僕のようにスパッと辞める人、所属チームを探している人、辞めたはいいけれど未練を残している人など、いろいろな選手を見てきましたし、どれが正解とは言えません。ただ、安心して毎日を過ごせることは重要だと思います。これからも監督を目指しながら、大切な家族全員が笑っていられる健康な生活を目指したいですね。


 数々の挫折を経験しながらも、“切り替える力”と“考える力”で逆境を乗り越えてきた三浦さん。アスリートとして活躍していた頃から、健康な身体を維持するために努力していたのはもちろんのこと、2つの力で心の健康も守ることが、前向きな生き方にもつながっているのだろう。そんな三浦さんの前向きな生き方には、信頼する高校時代の恩師が大きく影響を与えていた。

 人生で悩んだ時や不安になった時、信頼できる人に相談するのが一番。自分に親身になってアドバイスをしてもらうことで、より自分らしく、前向きで充実した人生を送れることだろう。メットライフ生命では、あなたらしい人生を送るためのサポートをしている。保険に限らず、健康やお金の不安や悩みを、プロのコンサルタントがあなたの相談に乗ってくれるだろう。

※この記事は、生命保険の勧誘を推奨しているわけではありません。


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