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アニメで社会を描いた奇才・今敏。最後のブログ「さようなら」:46年のアニメ人生の先で見た景色とは

大倉怜士

2015/11/07(最終更新日:2015/11/07)


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アニメで社会を描いた奇才・今敏。最後のブログ「さようなら」:46年のアニメ人生の先で見た景色とは 1番目の画像
出典:narrativeinart.wordpress.com
 2010年8月24日。うだるように暑い日だった。その日、ひとりの男が静かにその46年という人生に幕をおろした。それがアニメ作家・今敏(こんさとし)氏だ(以下、敬称略)。「アニメ界の奇才」と呼ばれた彼の死は、瞬く間に世界中のメディアで取り上げられ、世界中から追悼のメッセージが届いた。

 翌日、彼のブログにひとつの新着記事があがる。それは今敏からの最後のメッセージ。友人にさえ、自分に死が迫っていることを告げなかった今敏が後世に遺した最後の言葉たち。そして、それは同時に、今敏が遺した最後の作品でもあった。

じゃ、お先に。

出典:NOTEBOOK »NOTEBOOK» ブログアーカイブ » さようなら - KON'S TONE

 「さようなら」とそう名付けられたブログの最後を、このように締めくくった今敏。死の前日までブログを書き続けていたという。アニメ関係でお世話になった人へ、友人・知人へ、そして何より愛する妻へ。その思いの丈を込めた最後のブログ。こういった物言いが正確かは分からないが、それは死をリアルに描くひとつの今敏の作品でもあったのではないだろうか。

 今回はそんな今敏の42年というアニメ人生にスポットを当てながら、彼が描こうとしたもの、そして、彼が死の間際に何を思い、何を遺し「お先に」あちらへ旅立っていったのかに迫っていこう。語り継ごう、受け継ごう偉人たちが遺した思いを。

「アニメ界の奇才」と呼ばれた男・今敏

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出典:carolinasobral.wordpress.com
 北の大地・北海道釧路市で生まれた今敏。高校生までを雄大な北の大地で過ごした今敏は、高校卒業後、東京の武蔵野美術大学へ進学。武蔵野美術大学は今敏の他にも、水木しげるやリリー・フランキー、伊藤計劃などのクリエイターを輩出しているアートの名門校でもある。

 そんな武蔵野美術大学在学中に書いた漫画『虜〜とりこ〜』で、今敏は「週刊ヤングマガジン」の第10回ちばてつや賞の優秀新人賞を獲得することになる。このとき、ひとりの人物が今敏の才能をいち早く見出すことになる。それが『AKIRA』で有名な漫画家・大友克洋氏である。大友克洋は今敏をアシスタントとして雇うことにしたのだ。

 この大友克洋との出会いがなければ、もしかしたら今敏というアニメ監督はこの世に生まれていなかったかもしれない。今敏ファンであれば、大友克洋への感謝は忘れてはいけないだろう。

 そんなこんなで大友克洋のアシスタントとなった今敏は、大友克洋と江口寿史がキャラクターデザイン・メカニックデザインを担当したアニメ作品『老人Z』で、初めてアニメ作品に携わることになる。以来、アニメ作品に携わることが多くなり、次第にアニメ作家の道へと進むことになったのだ。

 1997年にはアニメ監督としての処女作となる『Perfect Blue』を、2002年には『千年女優』、続けて2003年には『東京ゴッドファーザーズ』を制作し、2006年公開にされた『パプリカ』が惜しむらくも最後のアニメ作品となってしまう。

 数々の賞に輝くアニメ作品を世に送り出し、この世を去った今敏。今敏はそれらの作品の中で「何を」描こうとしていたのか。ここからは「アニメ監督としての今敏」に迫るべく、彼の代表作を見ていこう。

『パーフェクトブルー』で見る、今敏が描く世界 

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by Cinema Forever
 アニメ作家としての今敏に迫るに当たって、この作品は欠かせない。1997年に公開された彼にとっての処女作『パーフェクトブルー』だ。国内でのレイティングはR-15指定、その他ほとんどの国では18禁指定を受けている当作品だが、決してホラー映画でもグロテスクな映画でもない。ただただ、リアル過ぎるのだ。

 この作品をあえて一言で形容するなら、「美しく残酷な世界」だと個人的には思っている。解離性同一障害がキーとなってくる当作品は、ひとりのアイドルが女優に転身し、アイドルからのイメージ脱却を図るため、ドラマでレイプシーンを演じたり、ヘアヌードの仕事をこなしてみる。そして次第に、アイドル業とあまりに乖離した現状の自分に問うようになる。「これは本当の自分なの?」。記憶の錯乱を感じている中、ある日、インターネットで自分よりも自分の行動を詳しく知っている人物を見つける。彼女はストーカー被害に遭っていたのだーー。

 簡単なストーリー紹介だけで、既に見たくないと抵抗を感じている人もいるかもしれない。うむ。筆者も「絶対に見ておくべきだ」とは言わない。何も考えずにゆったりとした映画鑑賞タイムを楽しみたいなら、宮崎駿氏のジブリ作品を見ていたほうがよっぽど良いだろう。

 しかし、なぜ今敏という人間がストーカーやレイプといった社会的不条理、そして多重人格や幻覚といった要素をアニメに取り入れたのか、その想いだけは汲み取って欲しい。今でさえ古い考えの人間は、アニメが子供のものだと考えている。本作が公開した1997年であればそれは尚更のことだっただろう。

 『パーフェクトブルー』の作成秘話として、今敏は自身のブログでこのように語っている。

本人の意思とは関係もなく、何者かによって作り上げられた“私”。自分が担い人前で披露してきた“私”が一人歩きを始め、更には自分よりも自分らしく なってしまった完璧な“私”。作られる舞台は電子のネットワークの中。あるいは主人公のインナースペース。主人公にとっては過去の自分、それが現在の自分 と対立する……。

 「あ、これで話になるかも…」

出典:その1 発端 - KON'S TONE

 今敏は死ぬまで大人向けのアニメづくりを続けた。「何か伝えたいものがあったなら、小説家にでもなればよかったじゃないか」という声もあがるだろう。たしかにそれも一理はあるだろう。しかし、アニメにはアニメにしか見せられないものがある。芸術思考の今敏には、今敏の思い描く世界があったのだろう。それをダイレクトに表現出来るアートの場。それは小説でも実写映画でもなく、アニメの中にあったのだろう。

「フィリップ・K・ディック」とアニメの新しい地平

 では、具体的な話に移っていこう。いきなりだが、今敏は作品のテーマに「イマジネーションと現実の融合」という一種の概念を加えている。つまるところの「現実と虚構」だ。移ろい易い現実の脆さと妄想や幻想といったフィクションの具現化は、今敏の作品における根幹を成す概念なのだ。

 『千年女優』公開の際のインタビューに対して、彼はこのように答えている。

この映画を通して「現実に起こっている事実だけがホンモノじゃない」ということを、感じ取ってもらえればいいですね。

出典:2/2 映画『千年女優』今敏監督インタビュー [映画] All About

 これは今敏の作品全般に共通していることでもある。一見、病的にも見える今敏のこのような思想の裏には、実はひとりの作家がいる。それがSF小説界で、今敏と同じように“奇才”と謳われたフィリップ・K・ディック氏だ。20世紀中盤のSF界を代表するディックは、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』や『ユービック』、『マイノリティ・リポート』といった作品で有名なSF作家だ。

 個人的な話になるが、筆者はフィリップ・K・ディックの大ファンだ。家の本棚の大半は同作家の作品で埋まっている。ディックのファンが今敏の作品を見たとしたら、ほぼ全員が必ずこう言うだろう。「ディック小説の世界だ」と。

作品の中で私は宇宙を疑いさえする。私はそれが本物かどうかを強く疑い、我々全てが本物かどうかを強く疑う。

出典:フィリップ・K・ディック

 断言しよう。今敏が最も好きな作家がフィリップ・K・ディックであったことを(Wikipediaにも書いてあることだが)。ディックは目の前の現実を常に疑っていた。それは彼の出世作である『宇宙の目』から一貫していることだ。そこで描かれている次々に移り変わる現実に似た虚構の世界は、他人の頭の中で構成された幻想の連続。代表作『ユービック』では、死の世界と生の世界という虚構と現実が相互に作用する世界を見事に描ききっている。今ここにある自分は、実は死の世界にいるのではないか。そんな思考を読者に与える傑作だ。

 なにを馬鹿なことを……と思われた方も少なくないだろう。そう、たしかに馬鹿な考えかもしれない。だがしかしだ。例えば、あなたの最も身近な人を想像してみて欲しい。その人が殺人を犯したとする。あなたは殺人を犯した後のその人を、殺人を起こす前のその人と同じように認識できるだろうか。無論、それはできないだろう。現実とはそれほどに脆く崩れやすいものなのだ。そして、ディックや今敏の世界では、それを復元することもまた可能なのだ。「本当はその人は殺人を犯してないんだ」という具合に。

 「アルマの座は脳にあり」だ。人の認識などは、個々人の脳での活動によって右往左往するもの。目の前の事象がその全てではない。あなたがその事象をどのように認識するか、それが現実を形作る全てであって、実際のところ「本当の」現実などない。これがディックや今敏の作品が伝えうる一種の問題定義だと言えるだろう。

 少々、筆者の個人的な思想も混じってしまったが、ディックと今敏の共通点は理解してもらえたことと思う。今敏の功績のひとつは、そういった難解なテーマを作品に取り入れたことだ。人が認識できずにいるリアリティの先を、アニメという影響力の強いコンテンツを使って視覚的にも表現したこと。これこそ今敏が、アニメ業界の新しい地平を築いた人物と目される所以だ。

今敏が遺した最後の作品「さようなら」

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 2010年8月25日にアップされた今敏の最後のブログ「さようなら」。「最後の作品」という物言いが正しいかどうかは分からない。だが、この言葉たちは今敏が最後の力を振り絞ってこの世に遺した最後の文章だ。膵臓癌に苦しみながらも、お世話になったすべての人に向けて書いたのだ。これを作品と呼ばずして何と呼ぼうか。

 こうして執筆していても、今敏の最後のブログを読んでいると、ついつい泣きそうになってしまう自分がいる。どこを引用すれば良いかも分からない取り留めのない文章だが、そこには今敏の溢れんばかりの感謝の念が籠っている。今敏が好きというわけではない人も、こればかりはぜひ読んでいって欲しい。ひとりの人間がなにを思い、なにを後悔し、なにを感謝して死んでいったのか。



 今敏というひとりの偉大なアニメ作家がこの世を去ってから、はやくも5年という歳月が流れたが、未だに今敏はこの世に生き続けている。それは今敏の思いを受け継いでいる人逹がいるからに他ならない。

 今敏の妻である今京子氏も、KON'STONEという今敏作品を後世に伝えるための会社で活動を続けている。それと同じく、筆者も含めた今敏ファンが日本中には山といる。そのひとりひとりが今敏をこの世に生き続けさせる。決して朽ちることない作品の数々と共に。

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