1. 戦後日本の影の立役者・白州次郎の名言に学ぶ「仕事と信条」:「人に好かれようと思って仕事をするな」

戦後日本の影の立役者・白州次郎の名言に学ぶ「仕事と信条」:「人に好かれようと思って仕事をするな」

出典:rintaro95.hateblo.jp

 「日本一かっこいい男」「日本ダンディズムの祖」などの異名を持つ男・白州次郎をご存知だろうか。戦後日本の復興に尽力した白州の名は、いくら影の立役者といえど常識の範疇。彼の功績はもっと世に知られるべきだと思う。

 いや正確に言えば、知っていて欲しいのは彼の功績よりも、人間としての“生き様”の方だ。そこにこそ、白州次郎という男がこのような異名を与えられているワケが隠されている。白州次郎の言葉はひどく直接的で、そこには少しの躊躇もない。だからこそ、私たちの胸に突き刺さるのだ。

戦後日本の影の立役者・白州次郎とは?

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 1902年から1985年という、まさに20世紀を生きた男・白州次郎の幼少期は、実は巷でも札付きのワルだったという。中学校に入学すれど、起こすのは暴力事件ばかり。中学校での成績は中の下以下で、成績表には「やや傲慢」という評価まで書かれていたという。

 次郎の人生を大きく変えた人物のひとりである父・白州文平は、築地大学の卒業後にハーバード大学やボン大学へ留学した経験があるなど、当時はまだ珍しい世界的な視野を持っている人物だった。

 そんな父から英語を習ったか(正確なところは分かっていない)、やんちゃ坊主の次郎くんも「英語」だけは堪能だった。そして1919年、中学校卒業と同時に、イギリスのケンブリッジ大学へ留学することになるのだった。

 これは彼の人生にとって、非常に重要なターニングポイントとなっただろう。白州は留学することで英語という自分の武器に磨きをかけたのだ。

日本を嫌い、日本を愛した男、白州次郎。

 とはいえ、当時のヤンチャな次郎が「英語を学びたいから」という素直な発想でイギリスに飛んだということはないだろう。彼には日本の空気が肌に合っていなかったのかもしれない。純粋に日本が嫌いだったという見方もできる。

僕は手のつけられない不良だったから、島流しにされたんだ。

出典:白州次郎 - 名言

 要は「結果」なのだ。一体誰が次郎が留学し、英語に堪能になることが、後の日本を支える重要なキーポイントとなると考えただろうか。

 未来への可能性ばかりに捉われるのではなく、自分のしたいことをする。特に若いうちはそういった心構えが大切なのではないだろうか。それが結果として未来の自分に繋がるのかもしれない。

アメリカ人“従順ならざる唯一の日本人”

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 話は飛んで第二次世界大戦後の日本。当時、白州は記者として働いていたが、「自分の仕事は戦後にある」という白州の言葉に感銘を受けた当時の外相・吉田茂の依頼を受け、終戦連絡中央事務局というGHQとの折衝を担う機関に参与として参加。

われわれは戦争に負けたが、奴隷になったのではない。

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 その機関はアメリカ人ばかりだったが、そこで彼はアメリカ人を“従順ならざる唯一の日本人”と言わしめるに至った。それは白州の決して妥協を許さない姿勢からきたもので、主張すべきところはイギリス訛りの英語で頑として訴えたのだ。

(自身の英語を褒められて)閣下の英語も、もっと練習したら上達しますよ。

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 彼は決して傲慢だったわけではない。だが同時に、「日本の為だ」などという大それたことを考えていたわけではない。そんな大業な発言を白州は残していない。彼はただただ自分の信念のもとに行動していただけなのだ。

プリンシプルを持って生きれば、人生に迷うことは無い。

出典:白州次郎 - 名言

 プリンシプルという言葉の意味には諸説あるが、自分の身体の中心を貫く一本の「柱」みたいなものだと私は解釈した。決して折れることのない鋼鉄の柱。そういった柱=プリンシプルを自分の中で持つことが、白州なりの人生に迷わないための(「迷わない」と「成功する」は違う)秘訣だったのだろう。

 あなたの心には、脳には、どんな柱が立っているだろうか。鋼鉄の柱? 木製の柱? それとも、ない?

マッカーサーに喝を入れた唯一の日本人?

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 白州の芯の通った性格は、GHQ最高指揮官であったダグラス・マッカーサーが相手であっても折れることはなかった。

 昭和天皇からのクリスマスプレゼントを「その辺にでも置いといてくれ」と無下に扱ったマッカーサーに、「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置けとは何事か!」と怒鳴りつけ、マッカーサーに持って帰らせようとして当惑させたという。

今の日本の若い人に、一番足りないのは勇気だ。
「そういう事を言ったら損する」って事ばかり考えている。

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 強いプリンシプル=柱を持っている次郎だからこそ言えてしまった一言だったのだろう。こういった発言がその場において、本当に適切だったかどうかは分からない。下手をすれば、マッカーサーの指示で捕まっていたかもしれない。

 しかし、彼のプリンシプルは自分の信念のためであれば、日本を支配する立場であるマッカーサーであろうと見境なし。それが白州次郎という男の人生を形成する「決して折れない」プリンシプルというものなのだ。

「人に好かれようと思って仕事をするな」

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 1951年、日本の主権回復を定めるサンフランシスコ講和会議。ここでも全権団顧問として同行していた白州のプリンシプルが火を噴く。

 外務省から回ってきた吉田茂首相の受託演説のスピーチ原稿を見た白州はこれに激怒。「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と外務省の役人を怒鳴りつけたという。

 それというのも、最初に外務省から回ってきたスピーチ原文は、GHQからの許可を得たかのような当たり障りない文面で、おまけに英語でスピーチするというものだったのだ。

 白州の一喝でスピーチ原文は急遽日本語へ書き直され、原稿は随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30m、直径10cmにも及ぶ巻物となり、内容には新たに奄美群島、沖縄並びに小笠原諸島等の施政権返還が盛り込まれた。

私は“戦後”というものは、一寸やそっとで消失するものだとは思わない。

出典:白州次郎 - 名言

 「戦争の終わり」を「戦後の終わり」と位置付けていた白州にとって、サンフランシスコ講和会議は夢にまで見、願った舞台だったのだろう。どんな場においても、彼は決して自分のプリンシプルを曲げることはなかったのだ。


 白州次郎という男を「自己中心的な人間」と片付けたくなる気持ちもわかる。確かに彼は自己中心的で、傲慢だったかもしれない。

 それでも彼は、自分の中の一本の柱=プリンシプルを決して自ら、いや、誰からも折られることはなかった。それが彼の強さであり、原動力だったのだと私は思う。

 ただのイエスマンではいけない。自分の信念を強く持って仕事に向かう人間こそ、本当のプロフェッショナルなのかもしれない。白州次郎の言葉を聞いていると、不思議とそんな風に感じてしまう。

 彼は自分にできることを全うするため、己の中に柱を立て、全てをやり遂げた末に死んでいった。最後に、彼が残した“最後の名言”をお伝えして終わりにしよう。

葬式無用 戒名不用

出典:白州次郎 - 名言


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