1. 「強いサッカーチームを目指せ」:キリンビール元社長・松沢幸一氏に学ぶ“成果を出すチーム”の在り方

「強いサッカーチームを目指せ」:キリンビール元社長・松沢幸一氏に学ぶ“成果を出すチーム”の在り方


 キリンビール株式会社・代表取締役社長を務め、現在は、北海道大学新渡戸カレッジ・フェロー、首都大学東京客員教授として活躍されている松沢幸一氏。

 入社から39年、大改革を断行してきた松沢幸一氏が大事にしている「軸」とは何なのか、どんな組織を目指していたのか、インタビューの様子をお伝えしていく。

「新入社員は余計なことはしなくていい」という空気が蔓延。キリンビール全盛期の新入社員時代

――松沢さんは農学研究科修士課程を修了され、キリンビールに入社されています。入社を決めた理由は何でしたか。

 大学時代に理系科目を学ぶ中で、食料や薬品といった、より実用的で親しみやすい分野を研究したいという思いが生まれ、農芸化学へ進みました。専攻は生物化学で、酵素について研究する研究室に入りました。

 就職先をキリンビールに決めたのは、全国展開しているキリンなら地元・群馬県の近くでもいずれ働けると思ったから。父親が大のキリンビール好きというのも後押しになりました。当時は、理系の院卒者が食品メーカーに入るのは珍しかったようです。

 入社当時はキリンビール全盛期で、造れば勝手に売れる時代。福岡工場に配属されたのですが、「新入社員は余計なことはしなくていい」という空気が蔓延していて、「自分はいなくてもいいじゃないか」と感じた私は、一時は会社をやめようとすら思っていたくらいです。社会人リーグに所属していた会社のサッカー部にのめり込んでいたので、何とか踏みとどまりましたが……(笑)。

 転機になったのは、本社で技術プロジェクトを率いていた優秀な先輩との出会いでした。この先輩はキリンビールの技術体系を築いた方でもあります。「水は有限な資源だ」が口ぐせの彼は、使用する水の削減や、排水処理した水の再利用も自分たちの務めだと考えていました。「会社はモノづくりだけではなく社会的貢献もしなくてはいけない」ということを彼の姿勢から学びました。

 当時は、活性汚泥という微生物に大量の空気を吹き込んで、排水中の有機物を分解し水を浄化するという方法で排水処理をしていましたね。また、1Lのビールを作るのに15Lの水が使われていたのですが、その後のいろいろな取り組みの結果、今では必要な水の量は3分の1にまで減っています。

「社長になったときの考え方のベースができた」京都工場部長時代。現場の声をいかに汲み上げ、組織の目標にするかが大事

――「一番この時期に熱く仕事をしたな」という経験を、ぜひお聞かせいただきたいと思います。

 キリンビールには39年間勤めたので、熱いエピソードはいくつかあります。

  一つは40歳前後に、4年間京都工場で製造部長をしていたときです。当時の現場では、しょっちゅう事故やトラブルが起き、品質にばらつきがあったりしていたんです。なんとか改善しようとして現場の人に話を聞くうちに気付いたのは、いくら本社や工場の管理者たちが方針・基準・計画を示しても、第一線の人たちは目の前の仕事と格闘するのに精一杯だということだったのです。

 リーダーが現場の一人一人の考えや悩みを汲み上げて、それを組織目標に変えていかなくては、工場はもちろん会社全体も良くなることはありません。そこで、私は現状を変えるために、リーダーとして社員のために何ができるかを考え、行動するようにしました。その結果、京都工場では現場と事務所が一体となった取り組みができるようになり、トラブルが減ったほか、原価削減や品質向上の面でも高い成果をあげることができました。 

 最初から原価削減などの数値目標だけを掲げたのではなく、一人一人の課題を組織の課題としてとらえ、解決していったことが成功要因だったのでしょう。ここでの経験が、社長になったときの考え方のベースにもなっています。

――現場の声を汲み上げることを大事にされていたのですね。

 京都工場では、一緒に働いた工場長からも非常に大きな影響を受けました。彼は珍しく事務系の工場長でしたが、京都工場を「社会に開かれた工場」「人間中心の工場」へと変革していきたいという目標を掲げていました。今でこそCSRが叫ばれていますが、当時としては非常に先進的な考えだったと思います。

 変革の具体的な道筋をつけるために、現場の人たちともディスカッションを進め、係や班の具体的な目標にまで落とし込んで実行に移していきました。その結果、組織としてもすごく生き生きした雰囲気になり、「あぁ、こういうマネジメントもあるんだな」と気付かされました。会社の仕事と社会を関連づけて考えることの重要性を示してくれたのは、大きなインパクトがありましたね。 

 もう一つ、印象深かった経験としては、2003年に本社の生産本部生産統轄部長を務めていたときのこと。全工場でCO2排出量の削減と、省エネを目指すプロジェクトを指揮したときでした。

 私たちがまず取り掛かったのは燃料転換。ボイラーの燃料を重油から天然ガスに変えると、CO2排出量を20%くらいカットできるんですよ。ただし、それだとコストが高くなってしまうので、大型ボイラーを小型ボイラーに変え、必要な量だけ蒸気を供給するという形に移行しました。 

 また、コジェネレーションを取り入れ、蒸気の他に電気も一緒に作るようにしました。さらに、活性汚泥を使った好気的排水処理の前工程にメタンガスを排水から取り出すことのできる嫌気処理を全工場で導入しました。得られたメタンガスを天然ガスと一緒に、ボイラーやコジェネレーションの燃料にするという手法です。これでビール造りに必要なエネルギー量を大幅に減らせました。削減目標をクリアし、水の使用量と同様、ビール1Lを造るのに必要なエネルギーも入社当時の3分の1まで減らすことができました。 

社長になってからの一番の思い出

 社長になってからの思い出では、何と言っても2011年3月に起きた東日本大震災ですね。震源地に近かった仙台工場も、壊滅的ともいえる甚大な被害を受けました。被災直後には、従業員や地域社会に「仙台工場はもう駄目だろう」「閉鎖か?」などという噂や不安が起きました。

 しかし、幸い工場にいた従業員や避難してきた近隣住民、あわせて481人は翌朝無事救出されました。日頃から企業は社会的存在で多様な役割を担うべきだと思っていましたし、東北が大きな痛手を受けたこのときこそキリンビールもできることを尽くすべきだ考え、4月7日に仙台で記者会見を行い、仙台工場を立て直すと発表しました。まだ原発事故の収束の目途が立たず、全国的に日常生活や経済活動は混乱の最中でしたが、このことにより、仙台工場の従業員のみならず全社員が復旧の決意を固めてくれ、被災地の皆様にも希望と勇気を伝えられたか思います。

 2011年7月9日に東北電力からの電力供給が復旧して復旧作業が加速し、10月下旬には製造を再開できました。これは、社長として自分の役割と責任を全うできたことであったと思っています。

強いサッカーチームを目指せ。指示がなくても「やるべきこと」を絶えず考える組織が成果を出す

――時代のうねりのなかで大きな改革を断行されてきたかと思いますが、次世代を担うリーダーに向けてメッセージをお願いします。

 大事なのは、人に生かしてもらっていることを忘れずに、思いやりの心を持って、まわりの人たちのために働くこと。中間管理職になってくると、「部下たちが気持ちよく力を発揮できる状態にする」ことが、リーダーとして大事になると思います。

  若い人たちにすすめたいのは、社会や経済の情勢、日本や世界の歴史に関心を持つこと、そしてメールなどではなく、顔を合わせて言葉を交わすコミュニケーションをすること。自分の仕事だけでなくチームとして最大の成果を出すということが大切だと伝えたいですね。 

 会社は、全社員が“たすき”をかけて走っているリレーのようなもの。前走者より、少しでも良いレベルで次世代に“たすき”を繋げるようにと意識してきました。 

 また、チームとして良い成果を出すためには、「強いサッカーチームを目指そうよ」と言いたいですね。

 サッカーでは、一旦試合が始まると監督からの指示を聞いている暇はなく、自分がどう動けばチームが得点できるか、勝てるかを、一人一人のプレーヤーが絶えず考えなくてはいけません。個々人が自分の役割を考えて、組織のために自分のベストを尽くすことが結果に繋がるのではないかと考えています。 

――キャプテンに向いている人はどんな人でしょうか。 

 やはり自分のことだけでなく、チーム全体を考えられる人です。これはまさにリーダーの条件と同じです。社長、部長も小さなチームのリーダーであっても、キャプテンとしての意識を持てるかどうかが、結果を左右すると思います。 

――10年後の日本の会社は、どうなっているとお考えですか。また、松沢さんのビジョンをお聞かせください。  

 お客様や株主、社員、お取引先、社会などすべてのステークホルダーのために尽し、利益を上げるという会社の基本は変わらないでしょう。ただ今後は、いかに多様な力を活かして新しい価値を生み出せるかが、ますます重要になってくると思います。今後も、自分の経験や知見を次世代のリーダーたちにぜひ伝えていきたいですね。


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