1. 若者に「逆転の夢」を与えつづけた吉本興業。関西発の「ショービジネス」はどう進化していくのか?

若者に「逆転の夢」を与えつづけた吉本興業。関西発の「ショービジネス」はどう進化していくのか?


 世界に向けたコンテンツ発信の時代、関西発のショービジネスは、どのように進化を遂げていくのだろうか。日本の笑いをリードする吉本興業の水谷暢宏氏、100年を超える歴史を持ち、国内外で熱狂的な支持を受ける宝塚歌劇の岩崎文夫氏、関西に生まれ横浜の地でベイスターズを率いるDeNA春田真氏が「G1地域会議2014関西」にて語った内容を3記事に渡ってお届けする。




スピーカー

吉本興業株式会社 取締役 水谷暢宏氏
宝塚音楽学校 校長 岩崎文夫氏
株式会社横浜DeNAベイスターズ 取締役オーナー 春田真氏

モデレーター

株式会社BS-TBS コンテンツ推進局局長 丹羽多聞アンドリウ氏

見出し

・「ひらがな」で喋ることを一番の強みに
・「宝塚歌劇団」は温泉の余興の一つとして始まった
・100年持続する球団にするには利益を出さなければいけない
・若者に「発奮する場」を与え、逆転の夢を持ってもらった

「ひらがな」で喋ることを一番の強みに


丹羽:皆さん、こんにちは。これから「G1関西」第3部、1回目の分科会ということで「ショービジネスほど素敵な商売はない」を始めさせていただきます。今回モデレーターを担当します、丹羽多聞アンドリウです。今はBS-TBSにて事業局長として、舞台や映画といった興行を手がけています。

 私の会社はBS-TBSとローマ字なのですが、今日はひらがなの会社と漢字の会社、カタカナの会社と非常にバラエティの富んだ4人で楽しく進めさせていただきたいと思いますので、よろしくお願いします。3人は関西弁ということで、今日は関西弁で話してください。すいません、私は東京弁しか喋れないのでご勘弁いただければと思います(笑)。

 では、まず吉本興業の水谷さんから自己紹介と併せて、自社のビジネスモデル・強みに関してお話をお願いします。

水谷:おはようございます。吉本興業の水谷と申します。皆さんご存知のように、弊社は「アホの会社」と言われて100年経ちました。昔は学校などで、どうしようもなかったら「吉本いかな、アカンぞ」と言われるような会社だったんですけど、それが今に至って、このような素晴らしい皆さまの前でお話をさせていただけるようになるとは、時代が変わったなと思います。

 うちのビジネスモデルは、「ワンソース・マルチユース」です。弊社は、タレントをたくさん保有していて、このタレントは「劇場」から生まれています。このタレントという一つのソースを劇場で使い、テレビで使い、CMで使い、DVDで使い、インターネットで使い、といったようにマルチユースする会社です。

 タレントがいないとどうしようもないので、結局のところ人間を売る会社ですね。派遣会社の元祖といってもいいかもしれません。ギャラがどうのこうのっていう話はよくされるんですけど、恐らく派遣会社の元祖だと思います。

 「ビジネス」という観点から話をすると、お客様は子供から80歳くらいのご年配の方々までと幅広いです。そういった中、一番の強みだと思うのは「ひらがな」で喋ること。

 本当に恐縮なのですが、色々と難しい言葉を並べたり、カタカナで喋ったりするといったことをやると、多くの人々に対していっぺんに物事を伝えることはできません。子供からおじいちゃん、おばあちゃんまでという幅広いお客さんに対して、どう伝えていくか。そこを考えたときに、「ひらがなで喋ります」が一番浸透力が強いのかなと。

 弊社は1ヶ月に30回くらい記者会見する会社で、とにかく情報を出していく。そのときに分かりやすいキャッチコピーで、バシッと打ち出していくことを信条にしています。やはり人気稼業ですので、忘れられると全然商売になりません。少しでもこっちを向いて頂くために何だかんだ毎日ニュースを作り、記者会見を通して発信しています。

 もちろん、発信することで良いこともあれば、悪いこともあります。悪いときは、本当に大変ですけど、日頃よくしていただいているので、毎日記者会見はしていますが、基本の姿勢は変えず「ひらがなで伝えていく」ということが信条にやっています。こんな会社ですけれど、どうぞよろしくお願い致します。

丹羽:ありがとうございました。では続きまして、漢字の会社の宝塚からいらっしゃいました、岩崎さんお願いします。

「宝塚歌劇団」は温泉の余興の一つとして始まった


岩崎:宝塚歌劇団の同列といいますか、宝塚音楽学校の校長をしている岩崎と申します。実は、宝塚音楽学校は2013年の7月17日に100周年を迎えました(会場拍手)。どうも、ありがとうございます。

 大正2年(1913年)の7月17日に宝塚音楽学校ができ、まずは20人の生徒を採用しました。そして、その生徒たちを訓練し、8ヶ月後の4月1日に公演を開始したので、宝塚歌劇団も2014年の4月1日でちょうど100周年。宝塚音楽学校の10代目の校長として宝塚音楽学校、宝塚歌劇団、両方の100周年を経験することができました。

 今となっては「宝塚歌劇」という、一つの括りで申し上げていますけど、もともとは阪急電鉄の前身である「箕面有馬電気軌道株式会社」の創業が「宝塚歌劇」の始まりです。

 明治40年に「箕面有馬電気軌道株式会社」が創立し、明治43年の3月に箕面〜石橋、梅田〜宝塚という路線を開通しました。当時、創業者である小林一三氏は、「お客さんをとにかく獲得しなければならない」と考えており、そのための乗客増加策として、まずは「住宅経営」に着手しました。

 住宅を作ることによって、固定的かつ安定的にお客さんを呼ぶことをまず発想し、チラシを作ったり、右往左往、東奔西走しながら色々努めていたのですが、数年の間で定着させることはできませんでした。

 「住宅経営」の途中で乗客・旅客の誘致策を考えなければいけない、ということで新たに目をつけたのが、宝塚と終点の箕面だったんです。

 実はあまり知られていないのですが、電車が走り出した半年後の明治43年の11月、箕面に動物園ができたんですね。当時、日本に動物園は、東京の上野動物園(明治15年開園)、京都の東山動物園(明治36年開園)の2つしかなかった。3番目に初めて、市立の動物園として、しかも一番規模が大きいものを作り旅客誘致に努めたんです。

 動物園の開演同時に、翌年ですが宝塚に「パラダイス」という温泉を開設しました。ところが、日本は地震が多く、また「環境が崩れる」という地元の人たちからの反対もあり、動物園は残念ながら閉園しました。

 こうした背景から、「もう宝塚1本に賭けよう」と。そして、宝塚に温水プールを作ったんですね。ところが、この温水プールも時期尚早で、温度管理もなかなか上手くできない。また時代も時代で、男女の混泳がNGだったんです。温水プールに警察が見張りに来て、女性が入っていたら取り締まるということで、お客さんがどんどん減っていき、見事に温水プールも失敗しました。

 しかしながら、この温水プールの場所は何とか確保しなければならなかった。そこで当時、三越に「少年音楽隊」というものがあったので、この少年音楽隊をもじって、うちは「少女」にして何かできないかどうかと考えたんです。

 そこから、温泉の余興の一つとして三越の協力を得て、始まったのが「少女歌劇団」。当時は「宝塚唱歌隊」という名前で発足しました。それが大正2年(1913年)の7月17日だったんです。

 歌劇の発祥というのは、失敗の産物なんです。それでも、おかげさまで100年続いて参りました。私はあちこちで、「どうして100年続いたのか?」とよく質問されます。関西学院大学の津金沢聡広先生が自著に書かれているのですが、津金沢先生は3つの理由を挙げています。

「宝塚歌劇団」が100年続いた3つの理由

 1つ目は、音楽学校を始めとして、学校を作ることで人材の育成に努めたこと。2つ目は徹底的に合理化を図り、演劇を商業として成立させた戦略があったこと。3つ目は、宝塚音楽学校、宝塚歌劇団が創立してから5年後の大正7年に、今もなお続いている『歌劇』という雑誌を創刊し、これを中心にメディア戦略を徹底して行ったこと。この3つを挙げています。

 しかしながら、私は常々「模索しながら現在も来ている」と答えており、生徒の力とスタッフの力、それから阪急グループからの財政的支援がやっぱり大きかったなと思っています。

 ひとまず、2013年に100周年を迎え、また新たに第一歩を踏み出している途中で、現在は102期生がすでに学んでいるという状況です。簡単ですけれど、以上になります。

丹羽:はい、ありがとうございました。すごい変遷があったということを、今初めて知りました。では続きまして、先ほどカタカナと言いましたが、春田さんの会社は「横浜DeNAベイスターズ」で漢字とローマ字、カタカナと全部いいとこどりでした(笑)。大変、失礼しました。

 こちらも歴史ある会社ということで、少し前まではうち(TBS)がオーナーだったんですけど、買っていただきまして、オーナーになっています。では、改めて春田さんから自己紹介お願いします。

100年持続する球団にするには利益を出さなければいけない


春田:DeNAベイスターズの春田でございます。まだ設立3年ですね(笑)。DeNAは1999年に設立したので、まだ15年くらいしか経っていない会社です。インターネットの会社としてスタートし、今もインターネットを中心に事業を手がけています。

 しかし、縁があって2010年頃に「TBSさんがベイスターズを手放される」という話があり、皆さんもご存知だと思うのですが、2011年に色々騒がれながらもプロ野球界に参入することができ、ちょうど丸3年経ちました。

 今から3年前の9月、10月が結構てんやわんやしてて、ちょうど今CSが(クライマックスシリーズ)やってて、それが終わったら日本シリーズが開催されるのですが、一応不文律的にCSや日本シリーズがやっているときは、変な情報を出さないっていうルールがあるんです。

 その間はみんなが静かにしてるんですけど、CSや日本シリーズが終わった途端にすぐ情報を出すみたいな形でやっています。かなり時間が経ったなと思いながらも、振り返ってみたら、たった3年なのかと思ってます。

 TBSさんから球団を引き継がせていただいて、色んな形でまだまだ改革といいますか、改善の途中です。当初の目標だった「3年以内にCSに出て、黒字化する」という目標に対しては、残念ながら全く実現できませんでした。

 CSについては少し可能性もあったんですけど、黒字化については全然及ばない。思っていたよりも改善しているのですが、まだまだ道半ばで、今後もどんどんやっていかなければいけないですね。

 100年続く会社というか、100年持続する球団であり続けるためには、球団としてもちゃんと利益を出していかないと、なかなか難しいと正直思っています。

 そうでなければ親会社の業績によって、「売るの?売らないの?」みたいな話が出てきてしまうんで、そういった話が出ないようにするためにも黒字化したいと最初に球団の方にも話をしてて。

 スタッフも色々な思いがあったと思うんですけど、3年経ってやっと一体となって運営できるような形になってきていて、今年でかなり改善し、来季に臨むというような状況になっています。

丹羽:はい、ありがとうございました。続きまして、岩崎さんからお話があったのですが、吉本興業さんと宝塚さんは色んな変遷があったと思うのですが、100年続いているということもありますので、100年続く秘訣みたいなところ、春田さんにはどうすれば100年続くのかといった秘訣みたいものがあれば、お話を伺いたいと思います。では、まず吉本興業さんからいかがでしょうか?

若者に「発奮する場」を与え、逆転の夢を持ってもらった

水谷:100年続いた秘訣は多分、「勉強できない、中学を卒業して終わり」みたいな社会的に見たら、「ダメじゃん」って言われる人たちが「舞台」という常識を覚え、一生懸命頑張る場所を作り、保ち続けてきたことが続いてきた理由かもしれません。やっぱり逆転の夢っていうんですか、それを作り続けてきたことが長く続く力になったんじゃないかなと思います。

 よく自分も芸人さんと喋るんですけど、だいたい自分の先輩の芸人さんは「高卒」なんですね。家庭の問題とかもあって、なかなか大学に行けない環境の人も多くて。そうした人たちと色々喋っていく中で、「絶対に負けない」「やる以上は売れるまで必ずやる」という強い気持ちを持っていたんですね。

 そういう人たちに対して、「劇場」という場を作る。そして、その場でみんなが発奮したのが良かったかなと思っています。うちは、劇場の時代が終わったとき、次にテレビという発奮させる場所を東京にとりにきました。

 関西でもテレビ出演はやっていたんですけど、段々商売も東京が中心になってきていたので、東京に「場」をとりにきました。テレビやCMは今から25年くらい前に、明石家さんまさんが少し出たりするくらいで、大した地位もなかったんです。

 そういった状況だったのですが、様々なメディアの方々とお話をさせていただき、場を作っていきました。最近では、これがインターネットという「場」に変わり、色々なことを模索中ではあるのですが、社会的にダメと言われるような人たちが発奮する場を作り続けてきた、といったことが最大の理由かなと思います。

 さっきも言ったのですが、芸人さんとよく喋る中で、「世の中の2割くらいはスゴい人、真ん中の6割くらいは普通の人、下の2割くらいの人は大変な状況にあって、まぁ足していくと、8割くらいは普通の人だ」と。そうした普通の人に向けて、僕らはひらがなで喋って、人気を保っていく商売だなと思っています。

 100年は結果的に続いてきたことかもしれません。よく、「100年続いてどないですか?」と言われるんですが、結局のところラッキーだったのかなって。ただ、やっぱり時代時代で、「なんかオモロイことやったろう」という人たちがいたんだな、というのは100年の歴史を見て、強く思いました。

 戦前、テレビがなかった時代は劇場が全国に50館あったそうです。最近は、なんばと京都、東京のルミネ、それと小さい劇場があるんですけど、当時は神田、浅草……といったように様々な場所にあったようです。

 その時々の諸先輩方が「なんか一発、オモロイことやったろう」という関西魂を持ってやってきたことも、続いてきた理由かなと。当然、これからその思いは我々が引き継いでいかなければいけないと思うのですが、最近普通の社員も入ってくるようになりまして、僕が入ったときは興行会社でめちゃくちゃで常識ない人ばっかりだったんです。

 本当に常識ない方々ばっかりだったんですけど、ひとたび面白いことを考えたり、思いついたりすると常人じゃない面白さみたいなものがあって、それを今後繋げていけるかどうかが最近の課題ですね。

丹羽:今の水谷さんの話を聞くと、いわゆる逆境とかコンプレックスのある人に場を与え続けたということが、歴史を創ってきたということですね。(続く)







第2回

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