1. 【全文】証券市場は不正の温床だった:数々の実験を通して示される「ズル」が起こりやすい環境

【全文】証券市場は不正の温床だった:数々の実験を通して示される「ズル」が起こりやすい環境

 新聞や週刊誌などで多く目にする金融市場の不正問題や会社の汚職事件。どうして大きな不正行為が行われるか不思議に思ったことがある人も多いのではないでしょうか。行動経済学の第一人者として知られるダン・アリエリーは数々の実験を通し、なぜ人間は「不合理な行動」である不正をしてしまうのか明らかにし、証券市場は不正の温床であると指摘しています。

 ここでは、行動経済学者であるダン・アリエリーがTEDで行った講演内容を書き起こします。イグ・ノーベル賞(人に笑いをもたらし、それでいて考えさせる研究に送られるノーベル賞のパロディ)を受賞したこともあるアリエリーのユニークな実験にも注目です。

スピーカー

ダン・アリエリー/行動経済学者

見出し一覧

・多くの看護師がしていた「痛みへの誤解」
・経済学が考える「人間の合理性」は間違っていた
・間接的で良心が傷まないズルに人間は甘い
・ズルにはパーカーが深く影響する?仲間の信頼感が生み出す影響
・実験から見えてきたこと:証券市場は不正の温床だった

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多くの看護師がしていた「痛みへの誤解」

 今日は、ベストセラーになった「予想どおりに不合理」という書籍の中身について話します。私が「不合理な行動」に興味を持ったのはずいぶん前のことでした。私は以前、酷い火傷を負ってしまい、病院で何年間も過ごしていた経験があります。病院では色々な不合理さが目につき、特に熱傷病棟で多くの不合理さを感じることがありました。特に私の頭を悩ませたのは、看護師の包帯の剥がし方です。絆創膏を剥がそうとするとき、一気に剥がして激しい痛みに耐えるのとゆっくり剥がして長めの穏やかな痛みに耐えるのとどちらがいいと思いますか?
 
 私がいた病棟の看護師たちは、さっさと剥がす方が良いと考えていました。看護師たちは包帯を一気に引き剥がしたのです。私の火傷は全身の70%に及びましたから、一気に引き剥がしても引き剥がすために1時間はかかり、引き剥がす間に襲ってくる恐ろしい痛みが嫌でした。ある時私は、「もう少しゆっくりと剥がしてよ。2時間ぐらいかけて剥がして。痛みを和らげられないの?」と看護師に頼みました。しかし、看護師は「私たちは患者の扱い方を知っているし、痛みを抑える方法もわかっている。それに患者は看護師の助言や邪魔をしてはいけない」と反論しました。私が知る限りでは、看護師の言った主張は万国共通のようです。

 私は結局どうにもできないまま、看護師は同じように一気に剥がし続けました。それから3年後。私は退院して大学で勉強を始めました。私は大学で面白いことを学びました。自分が疑問に思うことを抽象的な質問の形に作り変え、質問の答えを探ることで世界について少しヒントが得られることを知ったのです。私は実際にこの取り組みを試してみました。私はその時もまだ、火傷患者に対する包帯の剥がし方が気になっていました。最初はあまりお金がなく、万力を買ってきて研究室に人を集め、万力に指を間に挟ませ少しだけ締めてみました(笑)

 長めに締め付けたり、短めにしてみたり、痛みを強めては弱め、しばらく続けたあとには少し間をあけて痛みを与えることもありました。締め付けるたびにどう痛かったのか、そして選ぶとすればどちらの痛みを選ぶかを繰り返しと聞きました(笑)この活動はしばらく続きました(笑)研究費をもらえるようになってからは他の痛みについても試してみました。不快な音や電気ショック、拷問スーツの痛みまで実験することもありました。

 そして、これらの実験の結果から、看護師がしていたことは間違っていたことがわかりました。看護師がいくら善意と経験を持っていても、予想通り判断を誤るということを証明したのです。脳は、持続時間と痛みの強さを同じ計りでは計っていないようです。もしゆっくりと包帯を剥がしていたら、痛みはかなり軽減されていたでしょう。痛みの強い顔の方から脚の方に向かって包帯を剥がしていたら、苦痛は段々と軽減され、恐らく痛みも和らいでいたでしょう。また途中で少し休憩を入れてもよかったようです。包帯の剥がし方に改善の余地はありましたが、看護師は知らなかったのです。 

経済学が考える「人間の合理性」は間違っていた

 次に私が考えたのは、判断を誤るのは看護師に限ったことなのか、それとも一般的に当てはまることなのかということです。答えを端的に言うと、判断のミスは一般的な事象に当てはまります。私たちは多くの間違いを犯します。このような不合理の具体例の一つとして挙げられるのが不正行為です。

 ここから紹介する興味深い実験は、昨今の混沌とした証券市場にも応用できます。私がはじめに不正行為について興味を持ったのは、2001年のエンロン事件(エンロン社の不正会計を巡る不祥事)です。エンロン事件では一体何が起こっていたのでしょう?この事件は少数の悪い人間の行いなのでしょうか、それとも人間であれば誰しもが犯しうる過ちだったのでしょうか。

 私は単純な実験を行ってみました。まず、誰でも解けるような数学の問題20問が書かれた紙を配ります。しかし回答に十分な時間はありません。制限時間は5分で、終了した時点で答案を回収します。そして1問正解したらそのたびに1ドル払います。被験者の平均正解数は4問だったので、私たちは被験者に平均4ドル支払いました。

 次の実験ではわざと不正を働くような仕掛けを施します。今度も同様の問題用紙を配りますが、5分後に「紙を破きポケットか鞄にしまってください。そして何問正解したかを教えてください」と告げます。すると、正解数は平均7問に増えました。これは悪人がいて、たくさんズルをしたのではありません。実は多くの人が少しずつズルをしたのです。

 経済学の理論では、不正は単純な「費用便益分析」の一例とされています。捕まる確率はどれぐらいなのか?不正をすることで得られる価値はどれぐらいなのか?捕まったらどんな罰を受けるのか?これらの要因を計りにかけて考慮します。これが単純な費用便益分析です。そして罪を犯す価値があるかどうかを判断します。

 そこで3回目の実験では支払う金額を変えてみました。はたしていくらぐらいなら奪い取るのでしょうか。支払う額を1問あたり10セントから10ドルの幅まで変えました。

 多くの人は金額が大きいほど不正が増えると思うでしょう。しかし実際は違いました。多くの人は少額のときだけズルをしました。捕まる可能性は考慮されたのでしょうか?ある人は紙を半分だけ破き証拠を残し、ある人は丸々一枚破きました。またある人は粉々にして部屋を出ていき、多額の金銭を取りました。捕まる可能性が低い方が不正が増えると考えがちですが、これも間違っていました。やはり多くの人は少しだけ不正をしました。つまり、経済的なインセンティブに多くの人は反応しなかったのです。

 このように、人々は経済の合理性に見合わない行動をとります。人々が行動を起こすとき何が起きているのか考えてみることにしました。私は2つの力が働いていると考えています。一つは自分の姿を鏡に映し出し、自尊心から不正を抑えようとする力です。もう一つは少しだけなら不正をしても自尊心はまだ保てるだろうと思い込む力です。つまり、人間は超えてはいけない一線を守りながら、自分の評価を傷つけない程度に些細な不正をして何かを得ようとするのです。これを「私的補正因子」と言います。

間接的で良心が傷まない「ズル」に人間は甘い

 この「私的補正因子」を計測するためには、どのようなテストをすればいいのでしょうか?そして、「私的補正因子」を減らすにはどうしたらよいでしょうか?私は人々を研究室に集め、2つの課題を与えました。

 まず、半数の人には高校時代に読んだ本を10冊思い出してもらうように指示し、他の人にはモーセの十戒を思い出すように指示します。ここでもわざとズルをさせる細工をしました。しかし、モーセの十戒を思い出すように指示された人は、誰も全ての戒律を思い出せたとは報告しませんでした。わざとズルができるようにしたにも関わらず、誰も不正を働かなかったのです。これは熱心な信者がいてズルをしなかった訳でもなく、モーセの十戒と無縁な人がよりズルをした訳でもありません。モーセの十戒を思い出そうとした瞬間、すでに不正をしようという気持ちは無くなったのです。無宗教者ですら、聖書に手を置いて誓いを立てると、不正を働く気がなくなったのです。

 さて、モーセの十戒は宗教的で教育現場には不向きですから、「倫理規定」を使って実験を続けることにしました。「私はこの調査がMIT倫理規定の適用を受けることを理解しました」と書かれた倫理協定に署名をさせ、その後に破かせるようにしました。この場合も不正はなくなりました。しかし、面白いことにMITには倫理規定はありません(笑)

 不正の消滅は全て「私的補正因子」を減らしたために起きたのです。それでは「私的補正因子」はどのような時に増えるのでしょうか?私はキャンパスを歩き回り、6缶入りのコーラを様々な場所にある学生用の共用冷蔵庫に置きました。私たちはそのコーラを「半生分のコーラ」と呼んでいます。冷蔵庫に入れたコーラがどれぐらい飲まれないのか調べてみたのです。おわかりの通り、それほど長い期間コーラは残りませんでした。しかし、6ドルをのせたお皿を同じように冷蔵庫に入れた場合は、一銭も無くならなかったのです。

 これは良い社会学の実験と言えないので、私が先ほど説明した問題用紙を使った実験をアレンジして再度行いました。今度は、3分の1の人は紙を私達に戻します。別の3分の1の人は紙を破き、私達の所へ来て「試験官、私はX問正解したのでXドル下さい」と言います。そして最後に残った3分の1の人は紙を破き、私達の所へ来て「試験官、私はX問正解したのでX枚引換券をください」と言います。お金で支払うのではなく、別の物で支払うようにしました。引換券をもらった人は12フィート(4メートル弱)ほど歩いて換金します。

 直感的に考えてみてください。職場から鉛筆を1本盗むときと、10セントほどの小銭を盗むのでは、どちらが罪悪感をより強く感じますか?この2つには大きな違いがあります。現金ではなく引換券を間に挟むことでどう異なるのでしょうか?引換券を使ったグループの不正は、2倍に増えました。

ズルにはパーカーが深く影響する?仲間の信頼感が生み出す影響

 次に私が考えたのは、実験と証券市場の関連性です。もちろん実験が関連していたからといって、社会的な要素の強いエンロン事件のような大きな事件の解決には繋がりません。人は他人の行動を見ています。毎日ニュースをチェックし、不正を目撃します。そこからどんな影響を受けるのでしょうか?

 そこでまた別の実験をしてみました。大勢の学生を集め、実験協力の謝礼金を先に渡しました。全員が謝礼金が入った封筒を手にします。そして、最後に正解できなかった問題の数だけお金を返すように言いました。結果は以前とさほど変わりませんでした。不正を働く機会があれば人々は不正を働き、しかも多くの人が少しだけズルをするのです。ただ今回の実験では偽物の学生を1人混ぜ、「全部正解したらどうしたらいいですか?」と質問をさせました。試験官は全て終わったならそのまま帰るように言います。これだけです。この偽物の学生はグループの中に溶け込み、誰も演技をしていることは知りません。そして偽物の学生は不正を行うのです。すると他の人はどうするでしょう?もっとズルをするでしょうか?

 結果は着ているパーカーによって違いました。この実験はピッツバーグ市で行いましたが、そこには2つの大学があります。カーネギーメロン大学とピッツバーグ大学です。実験の参加者はカーネギーメロン大学の学生でした。演技をしている学生がカーネギーメロン大学の学生の時、不正は増加しました。しかしピッツバーグ大学のパーカーを着せたところ不正は減ったのです(笑)

 これは大切なことです。考えてみて下さい。偽物の学生が立ち上がった瞬間、全員がズルをして帰っても良いという認識を持ちました。試験官が「全問終わったら帰ってよい」というので、全員が帰ったのです。ここでも単に捕まる可能性が問題ではないということがわかります。不正してもよいかの判断基準が問題なのです。同じグループの人がズルをし、それを見たならば。同じメンバーなのでズルをしてもよいという気持ちになります。しかし、その人が違うグループならば、言い換えると他大学の学生のような出来れば関係を保ちたくない人であると、急に人々は正直になるのです。これはモーセの十戒の実験に似ており、ズルをする人は減りました。

 さて、この実験から何が学べるでしょう?多くの人が不正をすることはわかりました。しかもほんの少しだけズルをします。ところが、モラルに少しでも触れた途端、不正は減ります。不正と少し距離が離れて、例えばお金以外のものを盗もうとする場合だとズルは増えます。そして周りの人、時に仲間がズルをしているのを見ると、ズルは増えるのです。

実験から見えてきたこと:証券市場は不正の温床だった

 これを証券市場に当てはめてみるとどうでしょうか?多額のお金を証券で支払うとどうなるでしょうか?この実験と同様のことがあてはまることがわかりますね。現金から距離が離れたとたん何が起きるのでしょう?証券市場には株券やオプションやデリバティブ、土地担保証券があります。このような現金ではないものを使うと、引換券ほどではないにしても、現金からは何段階も離れているので、長い目でみれば人はよりズルをする傾向にあるのではないでしょうか?証券市場で不正をした他人の行動を見ることは、社会にどう影響を及ぼすのでしょう?私はこれらの要因の全てが証券市場を悪い方へ向かわせると考えています。

 一般的には、行動経済学では人間は直観に頼りすぎていて、多くの場合その直観は間違っていると言われています。問題はそのような直観を省みるかどうかにあります。自分たちが毎日の生活やビジネス、特に政策決定の場で直観をどう使っているか考えてみるのです。例えば教育制度や新しい証券市場を作る時、税制や社会福祉などの新しい政策を作る時などが挙げられます。そして、直観を確かめる難しさは私自身がよく知っています。

 病院に戻って看護師たちと話した時、こんなことがありました。包帯の剥がし方についてわかったことを看護師に教えると、2種類の面白い返答がありました。エティという看護師は「看護師の気持ちを考えていないじゃないの。もちろんあなたの痛みは当然だけど、看護師のことも考えてみて。大好きな人の包帯を取る辛さはわかっていたし、何度何度も繰り返し苦しめ続けるのは、私にとっても楽なことではなかった」と言いました。ところが、彼女を苦しめた理由は別の点にあって、「私は他人の直観が正しいと思ったことはなく、自分の直観が正しいと思った」と続けました。自分の身に置き換えて考えればわかりますが、自分の直観が間違っていると思うのは非常に難しいことです。そして、彼女は自分の直観を正しいと思い、別の視点をもつのはほぼ不可能なことだったと主張したのです。彼女は自分が間違っているかどうか考えもしなかったということになります。

 自分が間違っていると考えないのはよくあることです。私達はあらゆることに対し、例えば自分の能力やこれから経済がどう動くか、教師にいくら給料を払うかについて強い直感を持って判断しています。しかし、この直観は確かめてみない限り改善の余地はないのです。もし看護師が自分の直観に疑いをもつことがあれば、私の病院生活はどれほど楽になっていたでしょう。自分の直感をより体系的に調べることができれば、物事はもう少し上手く運んでいたのではないでしょうか?

 どうもありがとうございました。

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